映画館が並ぶ1930年の浅草(photo by gettyimages)

戦時下に、娯楽の検閲官は一体何をしていたか?知られざる権力の実態

大衆娯楽への圧力はいかにして生じたか
戦前戦時期には、内務省や警視庁によって、文化芸術に対する検閲が広く行われていました。しかし、その実態には、「無理解な当局による一方的な弾圧」という一般的なイメージとは異なる側面もあったと言います。検閲はどのように行われていたのか? 日本近現代史研究者・金子龍司氏による寄稿です。

戦前の日本人は今よりも映画を見ていた?

戦前戦時期を生きた人の娯楽といえば映画であり、舞台興行であり、ラジオであり、レコードであり、読書であった。これらマス・メディアを媒介とする大衆娯楽は、都市化・産業化の進展を背景に1920年代に出現した。

受け手はサラリーマンなど当時勃興した都市部の新中間層が核となっていたが、次第に地方やより低い階層へも人気を拡大していった。

たとえば映画館は、日中戦争開戦前年の1936年時点で全国に1600超あり、映画館入場者数は2億人を超え、国民1人あたり年間鑑賞回数は3回強だったという(2019年度の国民1人当たりの鑑賞回数は、1回強)。

戦前、というと、どうしても戦争との関連で娯楽のない世界を連想されるかもしれないが、戦前の人々もマス・メディアを媒介とした娯楽を楽しんでいた。

戦前期の娯楽文化の担い手のなかでも、渡辺はま子、美ち奴、笠置シヅ子、高勢実乗、榎本健一、古川ロッパ。そして黒沢明や溝口健二。これらの監督・俳優・歌手たちの作品を、映画やテレビ番組でご存知の方も多いかもしれない。いずれも戦前から戦後にかけて活躍した有名人である。

コメディアン・古川ロッパ

彼らの共通点は、当時内務省や警視庁などが行っていた検閲に引っかかっていたことである。検閲というと、特高警察による左翼思想の弾圧やその被害者である作家の小林多喜二などを念頭に置かれるかもしれない。

しかし、内務省や警視庁は、新聞図書のほか、映画や芝居の脚本、映画フィルム、レコード、実際の舞台などの娯楽についても、安寧秩序や公序良俗に及ぼす問題がないか、という観点から検閲を行っていた。

もちろん、検閲で処分されたのは彼らばかりではなかったから、彼らの被害は氷山の一角に過ぎない。しかし彼らはマスコミの注目を集めるスターであり、記録もそれなりに残っていて、それら史料は当事者の声から検閲の実態を窺ううえで貴重である。

古川ロッパ・渡辺はま子の証言

たとえば今でいうコメディアンの古川ロッパは、警視庁の検閲官が舞台に臨検に訪れた際の日記にこう書きつけている。

「警視庁の小役人が、ひとりよがりの愚論を吐いて、一々小うるさく文句を言ひ、実に二っちも三っちも行かない有様」(『古川ロッパ昭和日記 戦中編』(晶文社、2007年、1944年9月4日条)。

また、流行歌手の渡辺はま子は、自身が吹き込んだ『忘れちやいやヨ』が検閲で問題になったことについて、こう漏らしている。

「実は何の気なしに唄つてゐたのですが殊にあの唄だけが悪いといふとは私は不思議でなりません」(「'忘れちやいやよ'今後口にす可からず けふ突如・流行歌へ弾圧令!」『大阪毎日新聞』、1936年6月28日朝刊二面)。

いずれの証言も、無知で理解のない検閲官が演劇や音楽を蹂躙しているという現代の検閲イメージにぴったりである。検閲は長らくこのような被害者の証言をもとに、文化芸術に対する弾圧として語られ、結果として上のイメージが流通してきた。

反面、検閲官がなぜそのような弾圧をしていたのか、という点は、踏み込んで明らかにされてはこなかった。

しかし、加害者の言い分を聞くことで、当時何が起きていたのか、初めて明らかになる部分もあるかもしれない。また、そうすることで、検閲を現代と切断された過去の出来事として片付けてしまってよいかどうか、再考するきっかけも得られるかもしれない。

そこで以下では、検閲官がどんな人たちで、どのように検閲を行っていたのか簡単に紹介し、現代との連続や相違について考えたい。

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