photo by iStock

いまなぜポストモダンか? まっすぐな時代からの後ずさりのために

DIG 現代新書クラシックス(6)
群像×現代新書のコラボ企画「DIG 現代新書クラシックス」の第6弾(『群像』6月号掲載)は、哲学者・石川輝吉氏による、鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』(1996年刊)の解説です。
やさしい文体ながら、フランス現代思想という当時の知的潮流のエッセンスが詰まった本書。その「ポストモダン的感覚」が今こそ求められる理由とは?

「まっすぐ」が求められる現代

今回ディグるのは、1996年に刊行された『じぶん・この不思議な存在』だ。この著作をいま読むことにいったいどのような意味があるのだろうか。

あらかじめ言っておくと、この本は、当時最新のフランス現代思想、いわゆるポストモダニズムから、「じぶん」を読み解くものだ。だから、やわらかいタイトルや文体に比べて、難解な部分をはらんだ一冊でもある。

それに、いまから見るとこの思想の枠組みじたいに、「そういえば、むかしこんなのあったよね」と、古さを感じるひともいるかもしれない。

けれども、この本のなかにある「ポストモダン的感覚」というべきものは、「まっすぐな時代」ともいえるいま、注目すべきものだ。

いまは「まっすぐ」がそこかしこで求められているように思える。ネット、とりわけSNSの世界では「正論」や「論破」がいつも求められている。わたしたちはまちがいのない「答え」を求めて、ついつい力強いもの言いに引きずられ、それについていってしまうところがある。

それに、「まっすぐ」は人生のあるべき姿としても支持されている。若い人たちは「フリーターやニートになりたくありません」とよく口にする。学校側は「キャリア教育」を用意して、寄り道したり失敗したりしないような人生設計をあらかじめ描くように指導している。

「わたし」が生み出す暴力

もちろん、しっかりした意見や不安のない人生を求めることは自然な思いだ。けれども、いまは「型にはまった」意見や人生を求める気持ちが強いように感じる。だから、この本がつぎのように語るのはリアリティがあるはずだ。

〔…〕〈わたし〉になるというのは、わたしたちが個人としてのさまざまな私的可能性を失って、社会の一般的な秩序のなかにじぶんをうまく挿入していくことにほかならないということになる。(26〜27頁)

わたしたちがじぶんを「わたし」というとき、その「わたし」とは、だれもが使用する一般的な言葉だ。だから、ひとが「わたし」になることは、じぶんを社会に通用する一般的な秩序に組み入れることでもある。わたしたちはすでに「わたし」というときから、型にはめられてしまっているといえる。

それに、型にはまることは暴力も生み出す。わたしはわたし「でない」ものを排除しようとする。

〔…〕わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中あわせになっていることがわかる。(48頁)

わたし/わたしでないもの。この区別は、同じ価値を共有したわれわれ/価値を共有しないわれわれでないもの、という対立を生み出し、異物を排除しようとする。

わたしたちはいま、ネットの世界の大きな声の争いを目にしたり、一般的なレールからの逸脱を過度に気にする社会のなかを生きている。どうしてこんなにもひとは争うのか、どうしてこんなにもひとは逸脱することを恐れ、落ちこぼれたひとを排除するのか。

そう感じて、「まっすぐな時代」に疲れているのなら、こうした「わたし」という言葉や一般的な価値観がじつは暴力をはらんでいるという指摘は共感を呼ぶものだろう。

関連記事

ABJ mark

ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標 (登録番号 第6091713号) です。 ABJマークについて、詳しくはこちらを御覧ください。https://aebs.or.jp/