60年安保とは何だったのか?過激化する左翼運動と「新左翼」への道

池上彰・佐藤優が語る「左の教養」
池上彰×佐藤優

「新たな革命政党が必要である!」

池上 そうですね。ところで「トロツキスト」や「革マル」などの名前が出てきたこのあたりで、日本トロッキスト聯盟をひとつの源流として、無数の新左翼党派が枝分かれしていった過程を少しばかり整理しておきましょうか。

まず前提として、日本共産党が1955年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)でそれまでの武装闘争路線を「極左冒険主義」と自己批判する決定をしたこと、そして翌56年にフルシチョフがスターリン批判を行い、さらにハンガリー動乱で自由を求めるハンガリーの労働者たちをソ連軍が弾圧したことは、日本で社会主義革命を起こそうとしていた当時の急進的な若者たちに大きな動揺を与えました。

彼らがスターリニズム批判の意識に目覚めるとともに抱くようになったのが、武装闘争を放棄して「日和見的」と映った共産党に代わる、新たな革命政党が必要であるという問題意識でした。

それを最初に実行に移したのが、内田英世・富雄という、群馬県に住みながら1952年頃からトロツキー研究を行っていた共産党員の兄弟でした。

彼らは57年1月に「日本トロッキスト聯盟・第四インターナショナル日本支部」を結成します。これは「四トロ」と呼ばれました。

この四トロを母体として57年12月には「革命的共産主義者同盟(革共同)」が結成されるのですが、この革共同は内部の路線対立によってさらに細かく分派を繰り返します。

1958年には、第四インターナショナルの中心人物として社会党への加入戦術も指揮していた太田龍が、自分の影響下にあった東京学芸大学と日比谷高校のグループを引き連れて分裂(革共同第一次分裂)。

1959年には、かつては民青(=「日本民主青年同盟」。共産党の青年組織)の早稲田細胞のリーダーであった本多延嘉と、その本多の盟友だった黒田寛一が離脱して「革共同全国委員会」を結成します(第二次分裂)。

1963年にはその革共同全国委員会から黒田が離脱し、自分自身の党派である「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」を結成します。これがいわゆる「革マル派」です。

一方で黒田と袂を分かった革共同全国委員会は、残った本多たちのグループが「中核派」という通称を名乗るようになり、この革マル派と中核派が、新左翼のなかでも特に注目される二大党派となっていくわけです。

佐藤 だから、社会党という大きな傘の下に様々な新左翼セクトが集まることがなければ、実は安保も盛り上がらなかった。新左翼はある意味で、社会党という傅育器(ふいくき)の中で庇護され、育てられた。

そういう意味では、新左翼も55年体制から始まったと言えるんですよ。ふつう55年体制というと自社体制のことばかりが言われるけど、実は共産党も55年の六全協で今に続く体制となり、それによって新左翼も生まれてきている。1955年と56年の2年間で、その後の日本の政治・思想のあらゆる方向性が定まったと言えるんです。

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