60年安保とは何だったのか?過激化する左翼運動と「新左翼」への道

池上彰・佐藤優が語る「左の教養」
池上彰×佐藤優

戦闘化していく社会党

佐藤 他方でこの1960年には、三池炭鉱で大規模争議も行われており、ここでも社会党は闘争の中心になりました。実は安保闘争とこの三池闘争の相乗効果が非常に大きかったんです。

三池闘争は、起きたのが1959年末でなければあれほど大きい騒動にならなかっただろうということは日本の左翼運動史でもほとんど定説になっていますが、三池と安保の両方にかかわることで、社会党自身も戦闘化していった面が大いにありました。

炭鉱(ヤマ)の現場などというのは、死者が日常的に出るような場所ですし、炭鉱労働者の団結というのは他の業種と比べても格別に強いものがあった。だから社会党のほうも彼らから感化を受けることで相当に戦闘化していき、それが安保闘争の先鋭化にも影響しています。

一方でそういう状況にあって、今度は共産党のほうが党員たち、ないしは党の周辺に集まってくる全学連の学生たちを極力抑える方向に向かっていきました。

55年の六全協で武力革命方針を放棄し平和革命路線に舵を切った今となっては組織を温存しないといけないということで、跳ね上がり的な行動を押さえつけはじめたわけですね。

しかし社会党は統制が緩やかだったので、周辺に集まってくる全学連の学生たちが遠慮なく跳ね上がることができ、やがて彼らが安保闘争全体の中でも中心的存在を担うようになっていきました。

新左翼を育てた「社会党の傘」

6月10日にはアイゼンハワー政権の報道官だったジェイムズ・ハガチーが大統領の訪日日程調整のために来日したものの、安保反対派のデモに取り囲まれて動けなくなり、海兵隊のヘリで救出される「ハガチー事件」が発生し、これによってアイゼンハワーの来日は中止されます。

アイゼンハワー大統領の来日は中止された(photo by gettyimages)

これ自体は共産党系の学生組織が羽田空港に押し寄せたために偶発的に起きたことでした。しかし、全学連による行動について、共産党は自分たちの統制を外れて勝手に動き出す彼らには否定的で、「トロツキスト分子」「反革命分子」だと非難しました。

しかし社会党は、全学連の若者たちに対して一貫して好意的でした。

池上 そう。かつての共産党・社会党の立場が逆転する現象が起きた。そしてそうやって集まってくる中には、1955年の共産党六全協、翌56年のハンガリー動乱をきっかけに共産党と決別し、新たな路線の共産主義革命を目指していた新左翼もいました。

彼らは社会党に多くの全学連の若者が集ってくることに目をつけ、自分たちも社会党に加入することで内部で仲間を増やすいわゆる「加入戦術」を取り始めた。その代表的な党派が「日本トロッキスト聯盟」でしょうか。

佐藤 ええ。そうした戦術を取った中には革マル派もいましたし、社会党の青年部を母体として60年初頭にできた日本社会主義青年同盟(社青同)の分派である社青同解放派も60年代中盤から独自の動きをしていくようになる。

こういうふうに社会民主主義の政党が新左翼セクトを育む一つの土壌になっていったことは、日本独特のことなんですよ。

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