イラスト/植田たてり

宗教を信じる道には、“身体に合わない服を着る”ようなところがある

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第二信・A
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について、往復書簡で意見を交わす。今回は、釈氏の書簡を公開。

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宗教用語無しで、深い話を

 ご返信ありがとうございました。私も繰り返し読ませていただきました。おっしゃるように、「信(まか)せる」と読むところに、この問題の妙味があると思います。いずれ「信」と「智」と「まかせる」の問題についても、お話できるのではないかと楽しみにしております。

 また、あらためて、我々が目指しているのは、「使い慣れたテクニカルターム(特定の宗教用語)無しで、宗教の深い話ができるか」ということなのかなと感じました。

 私の方でも、もう少し「信じる」について語ってみたいと思います。

宗教の道具化

 若松さんは次のように書いておられます。

現代は奇妙な時代で、「信じる」という経験を横におきつつ、宗教が語られることが少なくありません。「信」が「知」の世界の秩序を乱すというのでしょう。いつしか、宗教は「信じる」ものではなく、「知る」対象になったのです。

 うむ、その傾向は強まっていますよね。宗教の道具化といいましょうか、情報として消費される宗教といった様相です。

 もうずいぶん以前の話なのですが、私の仏教研究の先生がこんなことを言っていました。「先日、ある高名な学者から『このたび親鸞の本を書いたから、知り合いなどに勧めてくれ』と著作が送られてきた。読んでみると、確かによく調べて書かれている。しかし、あとがきに『自分は親鸞がとても好きだけど、念仏する気はさらさらない』とあった。まったく念仏する気がない者に、親鸞がわかるとは思えない。だから人に勧める気にはなれない」。そう語る姿を見ていて、「この先生にとって、親鸞の思想は自らの全生涯をかけて実践するものであって、都合の良い部分だけを活用できる性質のものではないのだな」と実感しました。

 長い間かかって編み上げられてきた宗教体系はよくできているので、愚直に歩み続ければ(その体系が)目指すところへと到達できるようになっています。逆に、あちこちの体系をつまみ食いすれば、その体系のストッパー(道を踏み外さないための設定)が機能しません。

 私のように体系化された宗教の道を歩む者にとっては、宗教を道具のように使おうとする態度は、やはりちょっと危うく見えます。なにしろ宗教というのはとても力が強いので、我々の日常など簡単に壊してしまいます。人間の思惑などあっさり凌駕します。宗教を甘く見ていると、ひどい目に遭いますからね。

 そんなわけで、少なくともある程度は伝統宗教の文脈に沿って「信じる」という体幹が養われるのではないか、いや、人間の「信じる」という営みを伝統宗教は長い間かかって体系化してきたと言えるでしょうか。

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