織田信長像模本 蜷川親胤(式胤)模写(東京国立博物館所蔵)

本家を滅ぼし、主君を追放…織田信長の人生は「下剋上の連続」だった

典型的な「下剋上」から天下人へ

織田信長といえば、諸国の戦国大名を服属あるいは滅亡させて「天下一統」をすすめ、天下人としての地位を確立した特異な存在として知られている。しかし、信長が権力を確立する過程こそ、「典型的な下剋上の連続」であった。信長は、どのようにして勢力を拡大していったのか?

戦国時代における下剋上の実例を紹介し、その実像を示す黒田基樹氏による現代新書の最新刊『下剋上』から、その一部をお届けする。

 

「守護代の重臣」という立場からスタート

織田信長は、天文3年(1534)の生まれで、尾張清須織田大和守家の有力庶家で重臣の勝幡城主織田信秀(弾正忠家)の嫡男である。

尾張国守護は幕府管領家の斯波家で、文明15年(1483)以来、在国していた。

守護代織田家で、応仁・文明の乱で斯波家が分裂したのにともなって、岩倉城(愛知県岩倉市)の伊勢守家と清須城(同清須市)の大和守家二家に分裂していた。信秀が活躍した時期には、すでにそれらの任命はみられなくなっていたが、その家格とそれによる政治秩序は維持されていた。

織田氏略系図
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信秀は、天文元年から大和守家の主導権をめぐって、同様の立場にあった織田藤左衛門尉家との抗争をすすめ、同7年頃には、那古野今川家を滅亡させて、居城を那古野城(愛知県名古屋市)に移し、さらに藤左衛門尉方を攻略して、古渡城(同)を本拠にした。そうして大和守家においてだけでなく、尾張での主導権を確立した。

同時に三河松平家と抗争して、三河西部・尾張東部をめぐって攻防し、美濃土岐家の内部抗争に介入して、土岐頼芸を擁する斎藤利政(道三)と抗争し、美濃侵攻を展開した。信秀はこうした対外勢力との抗争の展開を通じて、尾張南部一帯を領国化し、大和守家から自立した国衆に成長していった。

同17年に、斎藤道三は三河松平広忠や織田大和守家を味方につけ、信秀に対抗させた。ここに信秀は大和守家と敵対関係になったが、これはむしろ大和守家から敵対してきたものになる。しかし大和守家に古渡城を攻撃されたため、信秀は末森城(愛知県名古屋市)に本拠を移した。

この劣勢の挽回のために、信秀は嫡男信長と斎藤道三の娘(いわゆる帰蝶・濃姫)との結婚を成立させ、同盟関係を形成した。他方で三河松平家が、駿河・遠江の戦国大名今川義元に従属したことで、三河西部をめぐっては今川家との抗争となった。

信長は信秀の三男(兄に信広・秀俊)であったが、嫡出のため嫡男になったとみられている。信秀が那古野城から古渡城に移ったのにともない、那古野城を譲られ在城した。同15年に13歳で元服し、同18年から信秀の嫡男としてその家政に参加するようになっている。

しかし信秀が病態になったため、同20年から末森城では同母弟の信勝(のち達成・信成)が活動を開始し、織田弾正忠家は信長・信勝が両立する態勢がとられた。そして同21年3月、信秀は死去し、信長が家督を継承した。19歳であった。しかし信勝との両立態勢は解消されなかった。

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