「家事育児」という無償労働の現実を、専業主婦・子持ちのワーキングマザー・育休中の男性・要介護の親を抱える独身のキャリアウーマン等々、様々な立場から伝えてくれる小説『対岸の家事』。専業主婦家庭と共働き家庭の世帯数は1990年半ばに逆転し、2020年には共働き世帯が倍以上となっている中、著者の朱野帰子さんが専業主婦をテーマに描いたのは、「家事育児」だけではない、無償労働が支えている社会の現実を浮かび上がらせたかったという意味もあったという。

NHK「あさイチ」でも大きな反響を受けた本作の文庫化を記念して、専業主婦の主人公・詩穂が、キャリアウーマンの礼子の「専業主婦って絶滅危惧種だよね」という言葉を聞くところから始まる話題の第1話無料試し読みが実現。終わりのない「家事育児」に向かう人たちの姿は、決して他人事とは思えないはずだ。なお、表記については文庫掲載のままだが、改行と見出しについてはこの記事として独自に入れたものである。

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専業主婦が絶滅危惧種になった日

 専業主婦はもはや絶滅危惧種である、と教えてくれたのは長野礼子だった。
 それまでは意識していなかったのだ。児童支援センターの受付のラックに「待機児童問題緊急事態宣言」というチラシがささっていても、「そうなんだ」としか思っていなかった。
 テレビドラマの主役も、主婦から働く女性へと移り変わっていることもわかっていた。それなのに、人生の選択肢が増えていくんだな、と吞気に構えていた。だから、
「保育園は決まった?」
 と、礼子に尋ねられた時も、
「うちは入らないので」
 と、詩穂は何も考えずに答えた。

 二人は児童支援センターの乳児向けの親子教室に参加していた。
 詩穂は生後半年の娘の苺を連れていた。たまたま隣に座ったのが、マンションの隣人の礼子だった。廊下ですれ違ったことはあったけれど、話をしたことはなかった。
「そうなんだ……村上さんだっけ? まだ二十代だよね?」
「村上詩穂です。二十五歳です」
「そっか、まだ若いのに子供がいて偉いよね。私は長野礼子」
 礼子は詩穂よりも五つ以上は年上に見えた。耳にピアスをしていた。細い鎖の先に小さいダイヤがついてチカチカ光っている。彼女の連れている男の子は一歳だそうだ。

「で、どんなお仕事してるの?」
「家事ですけど」

 詩穂が言うと、礼子は手をひらひらと振って、その答えをどこかに追いやった。
「そうじゃなくて、復帰後の仕事のこと。保育園に入れないってことは在宅の仕事?」
「まあ、在宅と言えば在宅かな……。私、主婦なので」
「え……」
 礼子は戸惑い、答えを探すように、目を宙に泳がせていた。
「娘さん、持病があるとか? あ、介護してるんだ」
「いえ、あの、私には仕事と家事の両立なんて無理だなと思って、それで……」
「ああ……今は就職するのも大変だものね」

 会話は途切れ、礼子は他の母親と話しはじめた。営業って大変でしょ、と誰かが言っている。そんなことないです、と礼子が謙遜し、いやいやと他の母親たちが持ち上げている。
 それで気づいた。みんな育児休業中の会社員なのだ。法規制緩和のこととか、システムがどうとか、堅い言葉が飛び交っている。専業主婦は一人もここにはいないのだ。

 急に心細くなって、手遊びの時間が終わると、部屋から出た。階段を降りながら、苺の頭に鼻を押しつけると甘い匂いがした。そこでブランケットを忘れてきたことに気づいた。
「イマドキ、専業主婦になんかなってどうするんだろう」
 取りに戻って引き戸を少し開けると、礼子の声が聞こえて、詩穂は立ち止まった。
「絶滅危惧種だよね、このあたりでは。地方にはまだたくさんいるかもしれないけど」
「家事なんて、いい家電があれば仕事の片手間にできるし、専業でいる意味あるのかな」
「旦那がお金持ちなのかな。でも、そうは見えなかったよね」
「まだ二十五歳だって。情報弱者っていうか、時流に乗り遅れちゃったんだろうね」
 最後に言ったのは礼子だった。ブランケットは別の日に取りにこよう。そっと引き戸を閉めたつもりだったが、ガタンと音がしてしまった。

 礼子がぱっと顔をこちらに向け、目が合った。しまった、という顔をしていた。でも自分は間違っていないという表情も浮かべていた。
 急いで階段を降り、玄関でベビーカーを開こうとしたが、うまくできなかった。他の母親たちが追いついてきそうで手が焦った。この気持ちに覚えがある。中学のクラスメイトたちが部活にいくのを横目で見ながら、スーパーへ歩いていく時の気持ちだ。
 ベビーカーをゆっくり押しはじめる。周りのことなんか気にしない。結婚して、子供が生まれて、今度こそ家事に専念しようと決めたのは自分だ。

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 自分は二つのことが同時にできない。
 十四歳で母を亡くし、家事を一手に引き受けていた頃にそれを思い知った。
 夫の虎朗にはつきあう前から「主婦になりたい」と言っていた。そうしたら、とうなずいた虎朗も器用なほうではない。独り暮らししていた頃の部屋は散らかっていた。家に帰るとご飯が炊けている。おかずもお味噌汁もある。それだけで虎朗は無邪気に喜んでくれた。
 でも、専業主婦が絶滅しかかっているなんて思わなかった。
 こういうところなんだろうな、不器用だと言われてしまうのは。

 十八歳で実家を出てから通った美容学校でも、詩穂は毎日のように居残りだった。勤めていた美容室でも、一人ひとりに時間をかけてしまい、よく怒られた。指名してくれるお客さんは多かったけれど、回転率を上げないと利益にはならないと言われた。
 自分はいつも一歩遅い。父に家事を押しつけられたのもそのせいかもしれない。
 さっきのワーキングマザーたちの目には、時代の真ん中を歩いているという自信が漲っていた。保育園が増えていくのも世の中が彼女たちを応援している証拠だろう。
 これからは、あの人たちが多数派で、こっちは少数派なのだ。

 詩穂はベビーカーを押しながら、虎朗と結婚して住みはじめた街並みを眺めた。
 賑やかに立ち話をする主婦は、そういえば、最近見かけない。子連れの女性もいない。みな働きに出ているのだろう。子供も保育園か学童に預けられているのだろう。昼間の街は不気味なほど静かだった。本当に自分と同年代の主婦は減っているのだ。
 自分は人生の選択を誤ったのだろうか。ベビーカーを押す速度が増していった。