主君を殺したけれど…取って代わる意図はなかった「戦国大名の無念」

陶晴賢は「下剋上」したのか?
黒田 基樹 プロフィール

思わぬ戦死

天文23年3月、義長・晴賢は吉見家討伐のために出陣、晴賢は石見に進軍した。5月12日、ついに毛利元就の離叛をうけ、安芸の大内方諸城を攻略され、厳島を占領された。こうして晴賢と毛利元就との抗争が開始された。

翌弘治元年(1555)初め、晴賢は毛利家攻略に向けて山口を出陣した。晴賢と元就の間で種々の政治駆け引きが行われた末、厳島での対決へと動いていった。そして9月21日、晴賢は厳島に上陸、元就も晦日に上陸、10月1日に決戦が行われた。そこで、晴賢は戦死を遂げてしまう。まだ35歳の若さであった。

こうして晴賢は、あえなく最期を遂げた。下剋上を行い、主殺しまでして、大内家領国の維持を図ったものの、それからわずか4年にして滅亡してしまった。しかし大内家そのものは、晴賢戦死からも2年は存続すること、その滅亡は毛利家の侵攻によることからすると、毛利元就との関係悪化が、晴賢戦死・大内家滅亡の最大の要因であった。

ここで晴賢が戦死しなければ、その後の状況はどうなったかわからない。晴賢の戦死さえなければ、大内家の滅亡、それに反比例してその後の毛利家の発展はなかったかもしれない。大名家当主、もしくは晴賢のような家政の主導者の戦死という事態が、いかに重大な政治的影響を与えるものであったかが認識される。

晴賢としては、その後も大内家を安泰にすることで、主殺しによる信用失墜を回復したかったことであろう。思わぬ戦死は、さぞかし無念であったに違いない。

晴賢は下剋上したのか

晴賢のクーデターは、典型的な下剋上の一つとして認識されてきた。しかし果たしてそれは下剋上であったのか、あらためて考えてみる必要がありはしないか。

たしかに主君を実力によって討滅したから、本来の語義でいう下剋上に変わりはない。しかしそれは大内家という枠組みのなかでの権力闘争であり、かつ晴賢は大内家に取って代わったわけではなく、新たな当主を擁立しているのであった。

すなわち晴賢の行為は、大内家の存続を前提にしたものであり、そのうえで当主の交替を実力で遂げた、というものであった。当主交替のクーデターというのであれば、管領家細川政元による将軍足利義材(のち義稙)の廃立、播磨の戦国大名赤松家の家宰浦上村宗による赤松義村の追放など、他にも多くの事例を認識できるであろう。しかし晴賢の場合を、それらと異なるものにしているのは、晴賢が主殺しをしてしまったことにある。

戦国大名家の当主が家臣に殺害された事例は、さすがに多くはみられない。浦上村宗は主君赤松義村を国外追放していた。斎藤道三も主君土岐頼芸を国外追放し、尾張織田信長も主君斯波義銀をやはり国外追放した。主殺しには、晴賢の場合や、長尾為景の場合にみられたように、大きなリスクがともなっていたから、主君に対してできるだけ穏便な処置が選択されたことがわかる。

戦国時代においても、なお身分秩序や主従関係の意識が強固に横たわっていた現実をここにみることができる。下剋上するものたちは、領国の維持とそれらの意識の狭間で、行動選択を余儀なくされ、そこで苦悩を重ねたことであろう

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