厳島(photo by gettyimages)

主君を殺したけれど…取って代わる意図はなかった「戦国大名の無念」

陶晴賢は「下剋上」したのか?

戦国時代には様々な「下剋上」が起きたが、西国の戦国大名での下剋上として代表的な事例は、陶隆房(晴賢)の場合である。隆房は、主君であった西国最大の大名・大内義隆に叛乱を起こし、自害に追い込んだ。しかし、隆房には、主家に取って代わる意図はなかったという。それなのに、なぜ隆房は「主殺し」に手を染めたのだろうか?

戦国時代における下剋上の実例を紹介し、その実像を示す黒田基樹氏による現代新書の最新刊『下剋上』から、その一部をお届けする。

 

陶隆房と大内家

陶隆房は、大永元年(1521)生まれで、大内家の家宰で周防国守護代の陶興房の嫡男である。

天文8年4月18日に父陶興房(当時は法名道麒)が65歳で病死し、隆房がその家督を継承した。わずか19歳であったが、同時に、陶家当主歴代が務めてきた大内家の家宰と周防国守護代も継承し、重臣筆頭の立場に位置した。隆房は、家督を継いだ翌年には、大内家における事実上の総大将として活躍をみせるようになっている。隆房はまだ20歳をすぎただけであった。

1550年頃の版図
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義隆との対立

隆房は、やがて主君の義隆と政治的に対立をしていくことになる。両者の対立が明確に認識できるようになるのは、天文17年(1548)7月頃からになる。義隆の側近家臣の青景隆著は、隆房と親しい関係にあり、それが安芸毛利家の人物に宛てた書状で、本来であれば義隆が大軍を動員すべきと思うが、それが実現できそうもないことを報せている。

当時、備後で尼子方の勢力と抗争していて、毛利家はそれに動員されていた。隆房や青景隆著は支援の軍勢を出陣させるべきと考えていたが、義隆が承知しなかったと推測されている。

義隆は、天文10年正月に安芸で尼子軍に勝利したのち、安芸における尼子方の攻略をすすめたうえで、同11年6月から尼子家の本拠出雲に進軍するが、同12年5月に大敗し、撤退した。その際に養嗣子恒持(姉の子で土佐一条房冬の子)が戦死するという損害を出すほどのものであった。この大敗がトラウマとなったのか、義隆は軍事行動に積極的でなくなったとみなされている。

他方の隆房は、大内家の味方勢力の維持、領国の維持のために義隆の出陣が必要と考えていたのであろう。しかし義隆はそれに応じないことから、隆房らは義隆への不満を抱くようになったらしい。

大内義隆は文化人として知られる(大内義隆筆短冊 慶應義塾大学斯道文庫所蔵)

天文20年(1551)正月になると、義隆と隆房の不和は公然の状態になった。それはもちろん隆房の叛乱を意味した。義隆はようやく対策を取り始め、27日には毛利元就に、もし「錯乱」が生じたら、味方するよう要請している。

しかし元就はすでに、隆房に味方することに決していた。5月には、義隆と隆房双方で、大友晴英を味方にするべく接触したという。ここで晴英は隆房に味方することにし、その際に義隆から誘いのあったことを伝えたという。こうして隆房は謀叛の実行を決意したらしい。

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