# 進撃の巨人

『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体

根底にある政治思想
杉田 俊介 プロフィール

しかしこうした意味での人民の自由は、おそらく、ネトウヨ的なものへの闇堕ちとも裏腹なのだ。実際に、ラディカルな自由を渇望するエレンの過剰な欲望の行く末は、「自分たち」以外の全ての「敵」への殲滅戦争に帰結したのだった。ここに『進撃の巨人』が突き当たる最終的なジレンマがある。

ではエレンは、自由をめぐるこのジレンマをいかにして解いたのか。あるいは解き得なかったのか。そして『進撃の巨人』の物語の全体が最終的に――たとえそれが変化し続ける諸国家の国際関係の中では暫定的な最善の選択肢にすぎないとしても――たどりついた政治性とは、どんなものだったのか。

 

パトリオティズムという答え

最終回でついに明らかになったのは、次のような事実である。エレンの暴走は、親密な仲間たちを守るための自己犠牲的な行動だった――これはかなり穏当な結末であり、多くの読者がおそらく事前に予想していたであろう結末である。では、それは政治思想的には何を意味するのか。

それはエレンの父親のような血統主義的な民族主義とは異なるし、あるいは国家に究極の理性の具体化を見出しこれに忠誠を誓うタイプの国家主義でもない。エレンの思想は、国民や家族の価値よりも、たまたま同じ場所に生まれ、偶然出会えた仲間との関係性を大事にする、という(ナショナリズムではなく)パトリオティズムに近いものだ。たとえ自分が歴史上の悪と見なされても、身近な仲間たちの命を優先的に守る、という考え方である。

政治思想史家の橋川文三は、ナショナリズムとパトリオティズムの違いを次のように説明する(『ナショナリズム――その神話と論理』)。ナショナリズム(国民国家主義)とは、じつは、ある歴史的な段階において出現した、人類にとって比較的新しい理念である。

これに対し、パトリオティズム(郷土主義、愛郷心)とは、時代や場所を問わず、あらゆる人種や民族に見られる「普遍的な感情」であり、生まれた郷土や、自分が所属する原始的集団への素朴な愛情によって形作られる。それは大人になってからもふと思い出される幼年時代の懐かしい記憶や、希望とともに未来を夢見ていた子どもの頃の思い出などにしっかりと根を下ろしている。

エレンの戦いは究極的にはこうした意味でのパトリオティズムに根差していたと言えるだろう(最終段階でそのことが確定する)。とはいえ、『進撃の巨人』を最後まで読み終えたとき、私たち読者が居心地悪くなり、たじろがざるを得ないのは、エレンが身近な仲間に対する深い愛着によって、世界中の人類の何割か(数億人に至ると思われる)を無差別に殺傷してしまった、という事実である。彼らの郷土のさしあたりの安泰は、人類史上最悪の大虐殺によって確保されたのだ。このことを私たち読者はどのように受け止めればいいのだろうか。

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