# 進撃の巨人

『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体

根底にある政治思想
杉田 俊介 プロフィール

こうしたエレンのラディカルな自由への渇望には、つねに両義的な危うさがあった。実際に、暴走したエレンは、始祖の巨人の力を使うことで、「地ならし」と呼ばれる超大型巨人たちの無差別の進軍をもって、国際社会の(パラディ島の住民を除く)人間たちを滅ぼそうとする。あたかもそれは、古典的な少年マンガの正義のヒーローが、陰謀史観によって世界の真理に目覚め、右派(ネトウヨ?)の武闘派に闇落ちしたかのようである。

しかも読者にとって、エレンの行動と思想の意味は、最終回に至るまで、いつ裏返るかわからないものだった。『進撃の巨人』はその骨格部分において、真理や正義のあり方がくるくると反転し、いつ裏返るかわからない、というポストトゥルース的=ポストデモクラシー的な物語構造を持っていた、と言える。

 

人民たちの「抵抗権」

ここで重要なのは、進撃の巨人の継承者は、かねてから「何者にも従うことが無かった」のであり、その「すべては王の独善に抗うため」だった、とされていることである(第121話)。つまり、エレン的な「進撃=自由」とは、王政・君主制における王の独善、あるいは政権の腐敗に抗うための、いわば人民の側からの抵抗権(革命権)を意味した、ということである。

たとえばジョン・ロックの思想は、王権神授説を否定し、人民による政府の変革の可能性を主張して、のちにアメリカ独立宣言の理論的な核となり、フランス革命にも影響を与えたと一般的に言われる。そのロックは、『政府二論』の中で、人民の抵抗権について次のように述べていた(岩波文庫『市民政府論』鵜飼信成訳)。

《立法者が、人民の所有を奪いとり、破壊しようとする場合、あるいは恣意的な権力のもとに、彼らを奴隷におとり入れようとする場合には、立法者は、人民に対して戦争状態に身をおくことになり、人民は、かくて、これ以上服従する義務を免れ、神が人間に一切の実力暴力に対して身を守るため与えられたあの共通のかくれ場所にのがれてよいことになる。》(221頁)

ロックはここで、人民によるある種の(対抗的な)暴力性を肯定している。というのは、恣意的な権力に走って、人民を奴隷状態におく立法者こそが、むしろ先に、人民に対する戦争を仕掛けていると見なしうるのであり、だからこそそれに人民は戦って抵抗すべきだ、と考えたからだ。

エレンの「進撃=自由」とは、くりかえすが、人間を奴隷化=家畜化しようとする権力の腐敗に対する、革命権(抵抗権)のような感覚――人民の社会契約に基づく実定法の手前にある自然法のような感覚――に基づく、ある種の永続的な奴隷解放闘争のことだった。そうしたエレンにとっては、初代フリッツ王の道(「不戦の契り」に基づく消極的な平和主義)も、父親の道(ファナティックな民族主義)も、異母兄ジークの道(自民族を緩やかに死滅させるという反出生主義)も、アルミンらの熟議的・討議的な民主主義も、不十分な政治的イデオロギーにすぎず、不満足な解答にすぎなかったのである。

編集部からのお知らせ!

関連記事

ABJ mark

ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標 (登録番号 第6091713号) です。 ABJマークについて、詳しくはこちらを御覧ください。https://aebs.or.jp/