# 進撃の巨人

『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体

根底にある政治思想
杉田 俊介 プロフィール

日本国内でいえば、在日コリアン差別に対する街頭でのカウンター運動、あるいは女性の被害性とSNSを用いた情動的共感によって一大勢力となった#MeToo運動などのことが想起されるだろう。合理的理性に基づく対話、あるいは異質な他者たちとの熟議(討議)よりも、「敵」との決断主義的な闘争の情動によって自分たち(私たち)の政治性を活性化しようとしたエレンたちの行動は、こうした2010年代のラディカル・デモクラシーと共鳴するものだった。

『進撃の巨人』は、それ以外にも、北欧神話的な想像力を根幹に置きつつ、大きなスケールの政治的思想を取り込んでいる。たとえば、戦争テクノロジーとしての巨人を用いて、技術と資本の力を加速させて、旧い社会秩序から新世界への脱出(exit)を目指す、というモードは、いわゆる「加速主義」的な自由主義者(リバタリアン)を思わせる(一般的には、起業家のピーター・ティールなどが代表的な論者として挙げられる)。

あるいは、自滅的な民族浄化(断種政策による緩やかな人種的安楽死)によって歴史的な軋轢を解消し、国際関係に安定をもたらそうとするという戦略は、まさに、「この世界にそもそも生まれてこないこと」を功利的かつ道徳的な最善とみなす「反出生主義」(Antinatalism)であり、厳密にいえば、反出生主義の特殊なモード――反出生主義を民族・人種的な特殊性を結びつけたもの――であるように見える。

(なお、そこから私が連想するのは、近年のアジア人差別問題とも関連している伝統的な黄色人種差別=黄禍論の歴史であり、黄色人種差別を内面化して自分たちの絶滅を願望するようになったという意味では、日本的ヒーローの創造者として知られる川内康範が作詞した「死ね死ね団の歌」が象徴するようなサブカル的想像力を想起させもする。)

 

エレンにとっての「自由」

こうした政治思想のヘゲモニーを求める多元主義的な闘争状態の中で、エレンがどこまでも欲望し続けるのが、ラディカルな「自由」である。しかしそれは古典的な意味でのリベラルの自由主義(国家が社会に介入しないあり方)ではないし、市場経済的な自由を徹底的に求めようとするリバタリアニズムの自由とも異なるようだ。

エレンにとっての「自由」とは、いわば、現代的な奴隷解放の思想としての自由主義なのだ。

エレンにとって、最悪なのは、奴隷(家畜)でいることだった。奴隷=家畜の状態を脱し、自由を手に入れるには、闘い続けるしかない。何が真実なのか、何が正しいのか、たとえ決定不能であるとしても、とにかく、決断主義的に戦い続けるしかない。この世界の「壁」とは、物理的なバリアのみならず、自発的隷属に染まった奴隷的な思考のことだ。この残酷で理不尽な世界の中で自由であるには、「戦え!」と自らに言い聞かせ、いわば自己洗脳し続けるしかない――。

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