被災地で耳にする「こんなことになるなんて」
噴火から4日後の11月19日。山頂火口からあふれた溶岩が外に流れ出した。報道陣や火山学者たちは熱を感じる距離まで近づいていく。

私も同行させてもらい、記者たちに島の地形や成り立ちを説明。無線で連絡を取るなど記者のまねごとをさせてもらったのを記憶している。その後、噴火は小康状態に。火柱もほとんど上がらなくなっていた。
「もう終わっちゃうの…もっと噴火して欲しい」
当時は、正直そう思っていた。山は、昔から「御神火」と敬われるように、島の人々の生活と共にあった。危害を加えることはないと信じていた。過去の経験から、島民の多くも同様に、噴火は恐ろしいものだとは考えていなかった。
しかしこの後“人間の経験則は覆される”ことを思い知らされることになる。
「こんなことになるとは思わなかった」…今も被災地で耳にするように。
山頂噴火から6日後。1986年11月21日の“想定外”の噴火。当時10歳だった私が災害担当記者を目指す原点の日だ。
11月21日 記者を目指す”原点の日”
この日は通常どおり小学校で授業を受けていた。ところが、昼ぐらいから体に感じる地震が頻繁に起きるようになる。揺れも次第に大きくなり、私も一緒に遊んでいた友人も異常に気づき始めた。授業は途中で終了し、帰宅を促される。
「やけに揺れるな」
「火山情報はどうなっている」
自宅にいた父は応援に来ていた記者とともに慌ただしく電話取材をしていた。
「なにかおかしい。大輔は家にいろ」
父に言われた私は外に遊びに行かず、この日は自宅にとどまった。そして午後4時過ぎのことだ。

「ドスーン! 」
この日、最も大きな揺れに襲われる。下から突き上げる揺れ。ベッドからはね落ちそうになった。そして続けざまに聞こえてきた大きな破裂音。山を見上げると巨大な噴煙柱があがっていた。それも、これまで噴火していた山頂ではないところから。
夕日に照らされ、赤や黒、灰と色を変化させ、“化け物”のようだった。
父は応援記者たちとともに車に乗り込んでいく。父も取材が終われば私たちと再会できると思ったのだろう。別れも告げずに猛スピードで山に向かって行った。現場に向かうのが記者の仕事であることは理解していた。
その後、父とは連絡がとれなくなった。