迫るマグマ…35年前の火山噴火、被災した少年がいま記者になって“伝えたいこと”

NHK取材ノート編集部 プロフィール

私が生まれ育った伊豆大島。東京の都心から南に120キロの距離にあり、山や海の大自然に囲まれている。自宅は釣宿だったこともあり、今は亡き父といつも海釣りをしていた。

2人の姉と(中央が私)・父撮影/よく父には「甘ったれ」と言われていた。 NHK提供

-なぜ大島はこんな形をしているの?

「噴火が繰り返し発生しているからだな」

-磯は何で黒くてごつごつしているの?

「かつて流れ出た溶岩で、玄武岩だからだ」

とにかく、父に質問し、そして、多くを学んだ。そんな亡き父も伊豆大島生まれで、島の高校を卒業後、上京。バイタリティーにあふれ、さまざまな仕事を経験していた。警視庁の機動隊、教師、トラックの運転手。島に戻ると漁師や釣り道具屋、釣宿、そして、釣り雑誌のライター…知識や社会経験も豊富で、父からの言葉や行動のひとつひとつに強く影響を受けた。

中央が10歳の私 右上が父/NHK提供
 

そして小学校高学年になるころ、父は大手新聞社の嘱託記者になっていた。大島の噴火はそんな中で始まった。

「お父さん、山が赤いよ! 」

2つ年上の姉が自宅で叫んだ。山頂で噴火が始まったのだ。記者だった父はすぐさまカメラや無線を持って車に乗りこんでいった。予兆となる地震が相次いでいたことや、気象庁が繰り返し情報を出していたことから、噴火が近いことは分かっていた。

11月15日夜 初期の噴火/NHK提供

“想定された”山頂での噴火。当初は子どもながら喜んだことを覚えている。前回の噴火は生まれる前の1974年。大人たちから過去の噴火を聞くたびに、私も経験したいと思っていた。噴火を経験することが島に育った証のように感じていたからだ。

「自分の目で見たい!」

父の車に無理矢理乗り込んで山頂へ向かう。暗闇の中、「ダダーン」と響き渡る音。噴き上がる火柱。そのたびに住民や観光客の歓声が起こった。しばしその姿に圧倒されていたが、不思議と恐怖心はなかった。

山頂噴火を撮影する金森氏の父の後ろ姿/NHK提供

噴火が始まると、実家には新聞社の本社から取材チームを組む応援の記者が来た。“赤いマグマのショー”を記録しようと、連日山頂に近づいていく。もちろん当時、携帯電話はない。

記者たちが実家に戻ると、ひっきりなしに電話連絡。写真を現像、たばこを吸いながら手書きの原稿を何度も書き直す。そして当時普及し始めたファックスで次々に送る。そんな慌ただしく働く記者たちの姿があった。

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