同社の寺尾文孝社長は警視庁元機動隊員で、秦野章元警視総監の秘書を経て日本ドリーム観光の副社長を務め、許永中、伊藤寿永光、高橋治則、後藤忠政、中江滋樹らバブル紳士と対峙した。1999年に日本リスクコントロールを立ち上げ、政財界の「盾」として闇から闇に数多くの依頼を処理してきた。政治家・経済人・芸能人たちの「墓場まで持っていく秘密」。その一端を明かす驚愕の手記『闇の盾』の一部を紹介する。
日本は独立国なのか
「見えない権力」ということでいえば、サイマル・インターナショナルの村松増美さんのことも忘れがたい。
村松さんは1972年の田中角栄首相とリチャード・ニクソン大統領の会談通訳を務めたというほどの英語使いで、港区・虎ノ門のアメリカ大使館のすぐ前で、「サイマル・インターナショナル」という通訳請負の会社と、「サイマル出版会」という翻訳出版の会社を経営していた。サイマル出版会は、ノンフィクションの名著『ベスト&ブライテスト』(デービッド・ハルバースタム)や、『ベトナム秘密報告』(ニューヨーク・タイムス編)などの版元として知られる。

村松さんとは、交通工学の第一人者の越正毅東大教授に紹介されて知り合った。3人ともスキーが好きで、1980年ごろから毎年、年末年始に3家族でつどって苗場プリンスホテルに長逗留する仲だった。
大晦日の12月31日になると、しんと静まり返った夜のスキー場を松明を持って滑り降りる松明滑走をするのが恒例になっていた。そのあとのパーティでは女性はドレス姿、男性も盛装して新年を祝った。ある年、石原慎太郎一家が苗場プリンスに姿を見せ、当時大学生だった長男の伸晃が大きな音をさせてクラッカーを炸裂させた。音に驚いた高齢の夫婦がしかめ面をしてパーティ会場をあとにするのを見て、黙っていられなくなった私が、「おいこの野郎! 静かにしろ!」と怒鳴ると、慎太郎一家は何も言わずに退席した。
そのスキー旅行に、数名のアメリカ大使館職員が同行することがあった。
虎ノ門のアメリカ大使館には、当時2000人ともいわれるCIAの要員がおり、極東アジア地域で情報活動をしていた。彼らは、日本の情報を集めると同時に、宣伝活動、つまり日本人がアメリカに対して悪印象を持たないような工作を熱心にやっていた。そのために大手メディアの記者や編集者、ニュースキャスター、コメンテーター、著名な学者らとコンタクトをとり、情報を与えて論文や記事を書かせることも常套手段だった。
CIAというと、尾行したり、銃を持って撃ち合ったりという、スパイ映画のような仕事を想像するかもしれないが、実際には潤沢な予算を背景にした宣伝・調査が活動の中心である。メディアとの接触のほか、日本の探偵社、調査会社に調査を依頼し、国内の政界、官界、実業界の情報を集めていた。