2021.05.25
# AI # 将棋 # エンタメ

「対局前も寝られないことはない」どんな時も平常心を保つ藤井流メンタル

藤井聡太論 将棋の未来(5)
変動と混沌のさなかにある将棋界に彗星のごとく現れた、藤井聡太という天才棋士。自身も史上最年少で名人位を獲得した、谷川浩司棋士が、藤井聡太という巨大な才能の謎に迫ることを通して、トップ棋士の持つ能力を明らかにするとともに、新たな時代を迎えつつある将棋の現在と未来を展望した。その強さの本質はどこにあるのか。メンタルはどれほど強靱か…『藤井聡太論 将棋の未来』から抜粋して掲載!

初タイトルにも揺れない心

藤井さんは負けが込んだことがない。本人は「スランプの時期があった」と言っていたようだが、周りから見ると、そんなことはまったく感じなかった。

初タイトルを獲得した際の藤井聡太棋士(右)と師匠の杉本昌隆八段 撮影/岡村啓嗣

連勝記録がストップした反動がなかったこともそうだったが、そのタフな精神力で驚かされたのは、初タイトルの棋聖を獲得した時に気持ちの揺れを感じさせないことだった。

奨励会からプロ棋士になるのは、毎年わずか4人。その棋士で何人がタイトルを手にできるか。現在、将棋のタイトル戦は竜王、名人、王位、王座、棋王、叡王、王将、棋聖の8つ。1935年の実力名人戦開始以来、八十数年間でタイトルを獲得したのは50人に満たない。だからこそタイトル獲得は棋士の夢と言われるのだ。

棋聖戦五番勝負の第四局。2勝1敗の藤井さんは、この対局に勝てば棋聖を奪取し、初タイトルを獲得するとともに最年少タイトル獲得記録を30年ぶりに更新する。

 

先手の渡辺棋聖が得意の矢倉を採用し、じりじりと間合いを詰め合うような展開になった。両者の持ち時間が30分を切ってから激しい終盤戦に。最後は1分将棋となったが、藤井さんが最短距離で勝負を制した。

藤井さんが勝ち続けていく中で、「もう一勝で初タイトル」という時に、羽生さんではなくとも、緊張のあまり手が震えたりすることもあるのではないかと思ったが、それさえもまったく見受けられなかった。

そのことに驚いたのは、私自身の原体験があったからだ。私が初タイトルの名人を獲得した時は、「気持ちの揺れ」どころではなかった。

1983年の名人戦七番勝負の第六局、加藤一二三名人との対戦である。それまで3勝2敗だった私が勝てば初タイトルを獲得することになる。二転三転の激しい攻防の末、勝敗を制する決め手が見つかった瞬間、手が震え、息が苦しくなった。

この時のことを観戦記者として対局室にいた随筆家の江國滋さんは、こんなふうに書き記している。

「ああ、という押し殺したような声とともに、挑戦者が不意に喘ぎはじめた。息苦しそうに顔を左右にはげしく動かし、手さぐりでひろいあげた純白のハンカチを急いで口元に押し当てながら、肩で大きな呼吸をくり返した。どう見ても嘔吐をこらえているとしか思えない苦悶の表情だった。荒い息づかいのまま、ハンカチを捨て、お茶をひと口すすり、メガネをはずし、おしぼりをぎゅっと両目に押し当てた。ああ、という声がおしぼりの陰から聞こえた」

初タイトル、それも名人という将棋の最高位を前に、私の心は緊張と安堵と歓喜の間をぐらぐらと激しく揺れ動いていた。

最後の即詰みが見えた時、自分の気持ちを鎮めるのに何分かを要した。お茶を飲んだり眼鏡を拭いたりいろいろなことをして手が震えないようにしたにもかかわらず、やはり決め手として打った銀はマス目から少しズレた。タイトルを獲るということは、やはりそれだけ大きなことなのだ。

関連記事