被災して痛めつけられた町で揺れた心
日本列島に一大ブームを巻き起こした2019年のラグビーワールドカップ。東日本大震災の被災地として唯一の開催会場になったのが岩手県釜石市だ。
「スタジアムは、津波で全壊した小中学校の跡地に作られた」
「ワールドカップ開催は復興を目指す被災地の人たちの目標になった」
――大会中も大会後も、ワールドカップ釜石開催をめぐる数々のエピソードと「ラグビーの町・かまいし」の名は、日本だけでなく世界にも発信された。
地元のラグビーチーム・釜石シーウェイブスの震災時の活躍も、多くのメディアで報じられた。
スタッフは津波に呑まれて動けなくなった車から閉じ込められた人を救い出し、ロープを体に巻き付けて避難を誘導した。選手たちは全国から届いた支援物資の荷下ろし、搬入に、停電でエレベーターの止まった病院や高齢者施設から転院する患者の移動に、太い腕と足腰を差し出した。
ラグビーワールドカップ釜石開催のストーリーに触れた人にとって、「釜石のワールドカップ」と「釜石のラグビーチーム・シーウェイブス」は一体のものに見えていただろう。

だが、釜石シーウェイブスの総監督・坂下功正は、「正直言うと、ワールドカップは、他人事でした」と言った。
意外な答えが返ってきたが、その思いは、未来に繋がっている。
釜石でワールドカップをやれないかな、という話を初めて聞いたのは、震災から3ヵ月が経とうとする2011年の6月頃だったという。
発言の主は、新日鐵釜石ラグビー部のOBで、被災地支援組織「スクラム釜石」を立ち上げたばかりの石山次郎だった。津波で傷ついた釜石に、復興の目標を作ろう、若い人が夢を持てるように――石山は、釜石にワールドカップを招致する意義を語った。
だが、その言葉を、坂下は受け取ることができなかった。
「え? 何かだってんの? ホントにそう思った」
いったい何を言い出すんだ? というニュアンスだ。
そんなことを、いま言い出す気が知れない。何か返事をする気にもなれない。
「勝手にやってよ――たしか、そんな言葉を返したと思う」
ラグビーを愛することでは誰にも負けない。現役引退後も釜石製鉄所で働き続け、釜石への愛着も誰より強い。そんな坂下でさえ、最初は拒絶反応をみせた。
それもまた、釜石ワールドカップの現実だった。
坂下は震災当時、新日鐵釜石製鉄所の設備室で係長をしていた。震災の日は製鉄所にいた。
長く強烈な揺れが収まると、すぐに誰からともなく「津波がくるぞ」という声があがった。坂下は50人ほどいた現場のメンバーに「まず逃げよう」と声をかけ、製鉄所敷地内の高台にある避難所に向かうよう促した。普段から防災訓練はしているから、避難はスムーズに進んだ。
「ああああああああ」
避難所で点呼をとっていると、近くからうめき声が漏れた。何人かが携帯電話のワンセグでテレビの中継を見ていた。その画面の中で、町が津波にのみ込まれていたのだ。海が黒く盛り上がり、波が堤防を越え、次々に町に流れ込んだ。津波は奔流となって道路を駆け上がり、次々と押し寄せ、家々を破壊していった。
その日から、坂下は1週間以上、会社に泊まり込んだ。
製鉄所は津波の直撃こそ免れたものの、激しい揺れと、電気、水道などライフラインの停止は設備のあらゆるところに影響を与えていた。すべての箇所を点検し、必要なら補修しなければならない。

それだけでも気が遠くなりそうな作業だが、それ以上に深刻だったのが市内の被害状況だ。すべて想像を超えていた。町中の建物が破壊され、ぐしゃぐしゃの瓦礫が折り重なっていた。日常生活は破壊され、どこから手をつけていいのかさえすぐにはわからない。


「今やるべきことは、工場を立ち上げることなのだろうか……」
坂下の胸に、そんな思いが去来した。
製鉄所は釜石の町を発展させてきたエンジンだ。製鉄所がいちはやく復活すれば、釜石は復興するぞという意志を内外に示せる。希望を失っている市民の光になるに違いない――そう信じてはいた。だが、町の様子を目の当たりにすると胸が締め付けられる。
坂下たち製鉄所員は、全国から届いた支援物資を配るため、連日手分けして市内の避難所を巡回していた。人々は誰もが憔悴しきっていた。身内の安否確認、大切な品々の捜索……やらなければいけないことはいくらでもあり、人手も時間も着替えも道具も、何もかも足りない。
そんな人たちを、もっと助けなくていいのか? 自分にできることもあるんじゃないか? 避難所をあとにするたび、そんな逡巡が胸を刺した。
職場でも、毎日は重苦しい現実と隣り合わせだった。津波の直撃を免れた製鉄所は貴重なインフラだった。市内の体育館やホールなどは多くが避難所に当てられ、空いているところはない。事業所内の空いているスペースは、全国から届いた支援物資の倉庫になり、遺体安置所に使われた場所もあった。

重く冷たい空気が町も会社も覆っていた。すべての時間が止まったような毎日が続いた。