福島第一原発事故 想定高さ「15.7メートル」保安院に報告4日後、現実に…

「津波対策は不可能だったのか」第5回
NHKスペシャル『メルトダウン』取材班

それぞれの悔恨と教訓

取材班は、東京電力の旧経営陣3人の裁判を端緒に膨大な資料を集め、100人を超える関係者に話を聞いて、事故前の時間を遡った取材を終えた。

多くの人が東日本大震災の前、地震に比べて津波を直近の危機と捉える雰囲気はなかったと語った。津波に関する調査や研究、シミュレーションで想定された津波が実際に押し寄せ、福島第一原発が致命的な損傷を受けることを想像できなかった。リスクの存在は把握していたものの確定的ではないとして横に置いた。

原発の安全神話。自治体への慮り。原発推進の国家政策。民間企業としての経営。電力業界の横並び。そこに国と自治体の思惑も交差し、津波のリスクは正面から取り上げられなかった。

津波対策につながるかもしれなかった4つの機会は手のひらからこぼれ落ちていった。

原発は他の施設とは決定的に違うことがある。それは一旦事故が起きると、その被害はとてつもなく大きく長期に及ぶということだ。リスクの考え方は最大限厳しくあるべきだろう。そうした認識がどれほど電力業界や国、自治体にあったのか。結果的に、不確実だからと後回しにされていった実態がそこにはあった。

津波想定に中心的に携わり裁判で証言した東京電力の元幹部は、法廷で、個人的な思いを聞かれ、一つ一つ言葉を絞り出すようにしてこう述懐した。

「福島であれだけの事故が起きたということに関しては、やっぱり、どこかで何かを間違っていたわけで、昭和40年代から間違っていたのかもしれないし、あるいは、誰がやってもああなったのかもしれない。でも、あってはならない事故が起きたということは、やっぱり何か間違っているのだと思います。どこで間違ったのか。東京電力は、私は、どこで間違ったのか。それは、ずっと、今も気にはなっています」と。

東京電力の別の元幹部は津波対策のワーキンググループの開始が遅すぎたことを今も悔やんでいる。柏崎刈羽原発の再稼働に意識を取られすぎて、福島が片手間になってしまったことを指摘した。「2年間の空白という事実は重い。それは否定できないし、言い訳するのは難しい」と静かに語る。また、どうすればよかったのか、という問いに次のような考えを語った。

「ちゃんと水を原子炉に入れたり、非常用電源を高いところに置いたりということは、お金をかけないでできたはずです。悪かったのは防潮堤ができなかったことじゃないし、津波の評価だっていろいろあったが、可能性として、当時から見れば、100%じゃないかもしれないけど、そういうことが言われているなら、せいぜい数億円だから非常時の対策をやっとこうと誰も言わなかった。それがやっぱり風土とか文化の問題で、問題はそこなんじゃないかと思います」と。

この元幹部はそうした柔軟な発想が出てこなかった理由について組織の問題をあげた。大きな組織の縦割り、風通しの悪さ。また分業や専門性が進みすぎた結果、全体をしてリスクを把握し、対応する部署や人がいなくなり、結果、リスクを見誤ったのではないかと総括した。

そして、原子力安全・保安院。地震・津波を担当した元幹部は、バックチェックの最終報告の審査でいずれ津波の議論を行えばよいと考え続けてきたことを後悔し「東京電力の試算結果をもとに対策を取っても事故を防げたかはわかりませんが、あのとき、最終報告の期限を明確に決めて貞観津波の知見に向き合っていれば、何かしら津波対策をできたかもしれません」とした。

原発事故のときに保安院を率いた元次長の平岡英治にも聞いた。溢水勉強会を立ち上げるきっかけをつくった平岡は、保安院の中でも津波のリスクを気にかけていた1人だった。しかし、その平岡も原発で相次いださまざまな不祥事や地震などのトラブルなどへの対応に追われていたと話し、優先順位を付けてリスクに向き合うべきだったとたる思いを述べた。

「日本のような自然災害の非常に多い国において、自然災害から原子力発電所の安全をどう守るかという視点をもっと強く持つべきでした。将来起こりえるかもしれない災害に対し、規制側の人材やリソースをもっと投入する必要があり、そこが欠けていたかもしれません。原子炉の損傷につながるような重大リスクに対して活動を集中していく余地はあったのではないかと、大きな反省をしています」

津波発生の1年前、国との交渉を担った福島県の小山吉弘は2013年3月に県庁を定年退職した。月に一回は大熊町の実家に通う。そこは曾祖父から4代にわたって100年近く暮らしてきた場所だった。原発事故で避難を余儀なくされ、今も帰還困難区域に指定されたままだ。

事故後、家屋は傷み維持が難しくなって、2019年に解体した。いまは広大な庭に手つかずの木々が残るのみだ。小山は、ひときわ目を引く大きな桜の木を見上げてつぶやくように話した。

「親から譲っていただいたものを、こうして荒廃させてしまったことが無念です。父が住んでいた頃は桜のライトアップなんかをやって、よく花見をしていました。柚や木蓮、牡丹もありました。畑ではキウイを作っていたんです」

小山はそう話して懐かしそうに庭を見渡す。

【写真】自宅があった場所にたたずむ小山吉弘福島県大熊町の自宅があった場所にたたずむ小山吉弘。事故後、維持が難しく自宅は解体された ©NHK

目を周囲にやると他の家々も解体が進んでいた。地区は更地が目立った。

小山は別の場所に暮らしている。しかし、大熊町には通い続けている。

「ふるさとに関わらなければならないというか、逃げられない、そういう感覚です」

福島県職員として、大熊町の住民として、原発と向き合い、時々の問題に懸命に対処してきた自負はある。ただ、津波に対しては何かできたのではないかと悔やむ。

「事故が起きてみれば、お金をかけずに安全を向上させる道はいくらでもあったのに、なぜもっと前にできなかったのかと思います」

変わり果てた故郷を前に小山は事故を防ぐ違う道が片方で開けていたのではないかと今でも自問自答を続けている。

長きにわたり、お読みいただきありがとうございました。本書『福島第一原発事故の真実』もぜひご一読ください!

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