福島第一原発事故 直前の津波対策で事故を回避した電力会社があった

「津波対策は不可能だったのか」第3回
NHKスペシャル『メルトダウン』取材班

茨城県と日本原電

茨城県東海村。JRの駅を降りると、ショッピングセンターや住宅が建ち並ぶ街が見えてくるが、海に向かって伸びる道路の名前は「原電通り」「原研通り」などと、原子力に由来したものばかり。日本で初めて原発が稼働し、数多くの原子力関連施設が立地するこの村は「原子力発祥の地」とも呼ばれる。

この地に立地する日本原電の東海第二原発で、震災前から津波対策が行われた。取材班は、2018年10月、対策に乗り出す理由の一つをつくった人物に出会った。茨城県の原子力安全対策課で課長などを務めた山田広次(やまだ こうじ・67歳)だ。東日本大震災の前に、日本原電に対して津波対策を要請し、日本原電はこれを踏まえて対策を実施していたのだった。

2007年3月。茨城県は津波浸水想定を作成していた。2004年に起きたインドネシア・スマトラ島西方沖の巨大地震を受けて国土交通省の委員会が津波対策を早急に進める必要がある旨をまとめ、自治体ごとに津波浸水想定を作成するよう求めていたことなどが背景にあった。担当の茨城県河川課は、専門家による委員会を立ち上げ、2005年から津波浸水想定を作成し始める。

県の津波想定に関する委員会で委員長を務めた茨城大学学長の三村信男(みむら のぶお・69歳)は、取材に対して歴史的に考えられる津波すべてを想定しなければならないと考えていたと話した。それまで茨城県沿岸では1960年のチリ地震津波での被害などは知られていたが36人の死者を出したとされる1677年の「延宝房総沖地震」による津波被害は文献の記載のみで、具体的な震源や規模につながる資料はなかったという。

そこで県の委員会は、独自に文献や現地調査、シミュレーションなどを積み重ねた。そして国が知見の不確かさから想定を示していなかった延宝房総沖地震をもとに津波評価をまとめることになる。三村は「科学的に予想し得る最も危険な想定をして対策を打たなければ、県民の命は守れないと考えた」と振り返る。

地元紙の記事で県の津波浸水想定を知った山田は、河川課から直ちに取り寄せた。そこには東海第二原発に近い2ヵ所の津波の高さが記されていた。1ヵ所の久慈川河口は7.6m。もう1ヵ所の新川河口は、6.6mだった。この数字が、山田の中の不安を強める。

「海水ポンプがやられてしまう可能性がある」

原子炉の冷却に不可欠な装置である海水ポンプが、津波をかぶれば壊れることは知っていた。山田は、日本原電の担当者を呼ぶ。津波浸水想定のデータをもとに、東海第二原発での津波の高さを出してほしいと伝えたのだ。

日本原電はすぐに計算を行ったという。その結果は、やはり想定より高いというものだった。数値は海水ポンプ近くで「5.72メートル」。当時、東海第二原発で推定されていた津波は4.86メートルだったので、それを0.86メートル超える。そして、高さ4.9メートルの壁に囲われた海水ポンプも浸水することを意味した。山田が「すぐに対応すべきだ」と伝えると、日本原電の担当者は「そうですね」と返事をしたという。

【写真】日本原子力発電・東海第二原発日本原子力発電・東海第二原発(茨城県東海村) ©NHK
 

山田は何十年も茨城県で原子力の安全対策に向き合ってきた。かつて、東海第二原発の近くにあった別の施設に、使用済み核燃料を搬入する際、その作業に本当に問題がないか確認するため、立ち会ってきた。一職員の山田が現場に行きたいと言えば、上司はそれを許したという。使用済み核燃料を積んだ船が港に着く様子を幾度も見てきた。

そして、その際、山田の目には、港近くにある東海第二原発の海水ポンプが映っていた。海水ポンプが置かれている場所、その大きさ、海面からの高さ。津波浸水想定を見て、何度も通った現場の光景が、頭の中にすぐに思い浮かんでいた。

そして、過去の災害が甚大な被害をもたらしたことが山田の心に刻み込まれていたことが大きかった。甚大な被害をもたらした1995年の阪神・淡路大震災。自然災害は常に人間の常識を超えてくる。この震災をきっかけに、山田は、これまでの想定を大きく上回る自然災害が、茨城県内の原子力関連施設を襲うことを否定できないのではないかとの思いを強くしていた。

数万円もする活断層の専門書を課で購入してもらうなど、過去の歴史地震や津波に関する資料をひたすらに調べていった。そして、津波浸水想定を見た瞬間、山田は延宝房総沖地震による被害の記録を思い出した。

足繁く通った現場、過去の津波被害。これらが、日本原電への要請につながっていく。

山田は大学で原子炉を扱った研究を行っていたことから原子力関連施設が多くある茨城県に入庁した。県庁ではほとんどが原子力安全対策課。多くの事故やトラブルを経験することになる。

その中でも山田に衝撃を与えた体験がある。1999年、東海村の燃料加工工場でおきた臨界事故だ。作業員2人が大量の被ばくで亡くなった。国内で初めて原子力事故による避難要請が出され、住民など600人以上が被ばくするなどした。当時、国内では過去最悪の原子力事故だった。山田は発生から1時間余りで現場に着き、県庁に戻ったあとも情報収集に当たった。山田は被ばくもした。

山田の中で、原子力に対する意識が大きく変わっていった。「何かあったら県民の安全を守れない」起きるかどうかわからない。しかし、備えておかないと起きたときに県民を守れない。原子力に関わることは不確実でもリスクに備えておくべきだとの考えを強く持つようになっていった。

しかし、実際に電力会社の対策につなげるのは簡単ではなかった。自治体と電力事業者の間の取り決めの一つに「安全協定」というものがある。事故時の対応などを約束したものだ。しかしこれは法的根拠を持たない紳士協定だ。この協定には「起きるかもしれないリスク」を根拠に正式な対策の要請を認める取り決めはない。

対策実施には巨額の費用だけではなく、県庁内、そして住民、国にも「なぜその対策を行うのか」という対外的な説明が必要となる。「根拠・エビデンス」が必要だった。残念ながら津波浸水想定は確たる証拠にはならず、これでは茨城県からの正式な要請はできないと考えた。

結局、山田はあくまでも自らの判断で「口頭要請」を行うことになった。当時について山田は、こうきっぱりと答えた。

「組織として動いたわけではない。別の見方をすれば、スタンドプレーという評価になるかもしれない。ただ、茨城県で長いこと原子力に関わってきた中で、いい加減なことはやりたくない。それは許されないという気持ちはあった」

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