社会の多数派からはみ出した者たちの連帯

坂元裕二がドラマの中で一貫して描くのは、社会の多数派の論理に適合できず、何かしらの欠落感や疎外感を抱えた人たちの姿だ。『まめ夫』でも、「ラジオ体操がいつも人と合わない」(第1話より)といった細かい小ネタやイメージの積み重ねによって、とわ子たちが多数派の輪からはみ出してしまう存在であることが暗示されている。

例えば、「雑談っているかな」「挨拶っているかな」といつも世間の当たり前に憎まれ口を叩き、理屈や皮肉で人を詰めてしまう慎森のめんどくささは、『最高の離婚』の濱崎光生(永山瑛太)や、『カルテット』の家森諭高(高橋一生)の生きづらさに通じるものがある。

「何でかな。子供の頃からイベントが嫌いだった。クリスマスも節分も、みんなが楽しんでるものに居場所がなかった。あいつら何はしゃいでんだって言って、隅のほうで悪態ついてた」(第2話より)という慎森のセリフは、そのまま濱崎や家森のセリフとしても通用するだろう。

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とわ子の親友・綿来かごめ(市川実日子)も、「みんなが当たり前にできてることができない」(第4話より)と自らを語る。

彼女は、かつて隣家のかわいそうな赤ちゃんを誘拐して指名手配された過去を持つが、これは同じ坂元脚本のドラマ『Mother』で虐待・ネグレクトに遭っていた道木怜南(芦田愛菜)を誘拐し、逃避行を行なった鈴原奈緒(松雪泰子)を連想させる。また、何らかの確執を抱えた親族と半ば縁を切っており、とわ子との間にシスターフッド的な絆を結んでいるさまは、どうしたって『カルテット』の世吹すずめ(満島ひかり)と巻 真紀(松たか子)の関係を彷彿とさせるだろう。

ロマンティックコメディでありながら、かごめが恋愛や性愛を指向しないアロマンティック/アセクシュアルであることも重要だ。血縁や家族、恋愛などを至上とする世間のルールにコミットしないキャラクターが、かごめなのである。

こうしてみると、坂元作品には同じ魂から転生したような別のキャラクターが、作品を超えて登場することがしばしばある。そして、「いいんだよ、はみ出したって。嫌なものは嫌って言っておかないと、好きな人から見つけてもらえなくなるもん」(第2話より)というとわ子のセリフのように、世間が一方的に設定する「普通」や「当たり前」のルールから疎外された者同士が、擬似家族のように互いを包摂しながら連帯していくのは、坂元作品でよく見られる温かい光景なのだ。