1993年、パリコレにモデルとして参加して以来、モデル活動に、執筆や講演活動にとフル回転。常に前向きかつフェアなメッセージと笑顔で、多くの人を元気づけているアン ミカさん。なぜアン ミカさんは、いつもポジティブに輝いているのでしょうか。アン ミカさんが今のアン ミカさんになった秘密を、「言葉」をキーワードにし、その言葉にまつわるエピソードをお聞きして紐解く本連載。読むだけで心がちょっとラクになる、ビタミンのようなメッセージを受け取ってください。

連載第3回では、アン ミカさんが15歳のときに天国に旅立ったお母様から教わった美のレッスンと「4つの魔法」についてお届けしました。今回は、 “4つの魔法”のふたつめ、「口角を上げて笑顔になる」についてお聞きします。心に留めている31個の言葉をまとめた、『ポジティブ日めくりカレンダー 毎日アン ミカ』でも「笑顔」について多くを伝えているアン ミカさん。しかし幼少期はコンプレックスだらけで、笑うことも上手にできなかったのだといいます。果たしていつからこれだけの「笑顔」を身につけたのでしょうか。

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笑顔の種をまくと相手も笑顔になる

母は、よく「口角を上げて笑顔になりなさい。自分が笑って笑顔の種をまくと、それがうつって相手も笑顔になるから」と口にしていました。また「顔の筋肉は脳に一番近い。だから笑顔でいると、脳も“笑い脳”になるのよ」とも。

口の傷がコンプレックスになっていた私を、「口角を上げるときれいに笑えるよ」と励ましてくれたことも忘れられません。練習していると「上手にできたね、かわいい!」とちゃんと褒めてくれるのです。

また両親が、そういうことを替え歌にして歌ってくれるんですよね。教会の聖歌も替え歌にしていました。あれはすごく楽しかった。苦しい生活のなか、特に母が明るく前向きだったことで家族はどれほど救われたことか。

たとえば私が差別でいじめられ、泣いて帰ってきた時もそうです。小学校の道徳の授業で韓国のことを習ったとたんに、「お母さんがダメだって言うから」と友達が遊んでくれなくなったことがありました。
今でこそ差別は理不尽な行為だと理解できますが、当時の私はまだ子ども。ただ悲しいだけではない、うまく言葉にできない感情で心がモヤモヤしていました。

折しも家の近所の公園に金木犀の花が咲き、あたりにいい香りが漂っていた季節。金木犀の香りは大好きですが、今もその香りをかぐとあの日の辛さがよみがえり、胸が締め付けられます。

いい香りとともに、切ない思い出が…Photo by iStock

差別をした友達を招き、韓国料理をごちそう

そんな悲しい気持ちを一蹴してくれたのが母。「あらー、みんな知らないんだわ。韓国はとっても美しくて、ご飯が美味しいところなのにね!」と明るい口調で話し、差別した友達のことを一切怒らなかったのです。

そして私を膝に乗せ、「ミカちゃんにそう言ったお友達を呼んで、美味しい韓国料理をごちそうしましょう」と提案してくれました。もしもそこで母が「なんてひどいことを。今からその子たちの家に抗議に行ってくるわ!」などと逆上したら、私は親を嫌な気持ちにさせてしまった自己嫌悪で、さらに落ち込んでいたと思います。

その日は別に私の誕生日でもなんでもなかったのですが、後日理由をつけて「お食事会をしますので来てください」と、数人の友達を誘いました。その頃ラーメン屋さんを営んでいた母が、来てくれた友達に、子どもが大好きなラーメンと餃子、特別に美味しいチヂミ、店では出しておらず、まだ珍しかったプルコギなどを振舞ってくれたのです。

もちろん友達は大喜びで、食事会は大成功。母は「韓国ってすごくいいところなのよ」とか「これからもミカちゃんをよろしくね」と、終始笑顔で皆に接してくれました。あの母の対応がなかったら、私の心に傷が残っただけでなく、「韓国人であることはトラブルを招くのだ」という間違った認識を持ってしまったはず。友達だって、もし母が怒ってクレームをつけていたら、私のことを避けていたかもしれません。本当に母の機転には救われました。

撮影/大坪尚人

鉄の柱を包丁でカンカンカーン!

いつも明るくて優しい母でしたが、実は子どもの頃から病気がちで気管支が弱く、学校にもあまり行けなかったと聞いています。ひざに水がたまったり、結核で入院したりした時期を経て、30代半ばにがんを発症。以降は放射線治療を受けていました。

昔は放射線の治療を受けると、その場所にマーキング用の紫のインクが残り、2カ月くらい消えないのです。母は咽頭がんだったので首でしたが、がんの治療中であることが一目瞭然なので、その上から湿布を貼って隠していました。

子どもの目から見ても、本当に働きづめの人生だったと思います。私が小学生の頃には、保険の外交員をしていた時期もありました。契約を取って帰宅すると、今度は夕方の5時から翌朝の5時まで、自宅を兼ねたラーメン屋さんで働くのです。

私の役割は、学校から帰宅したら店のカウンターの上に椅子を上げて、床にモップをかけること。弟の手を引き、鶏ガラを買いに行くのも私の仕事でした。そうこうするうちに母が帰ってきて、餃子の仕込みを始めます。私たちきょうだいはカウンターの端っこでご飯を食べるのですが、これなどはまさにラーメン屋さんの子どもあるあるですよね(笑)。店には鉄の柱があって、そこを母が包丁で「カンカンカーン!」と叩くのがご飯の合図でした。

命があるうちに――強く温かく導いてくれた母

仕事を終えた母がラーメン臭いエプロン姿のまま倒れるように横になると、私たち子どもの出番です。すかさず私と姉が足を揉み、弟が背中を踏んでマッサージするのが毎日のルーティン。母とおしゃべりできる貴重な時間ということで、皆で競うように学校での出来事を話していた記憶があります。

がんが見つかってからの母は、時間を作っては私に編み物の指導をしたり、姉と妹に料理を教えたりするようになりました。おそらく自分の命が長くないことを察して、娘たちに家事を託そうとしていたのでしょう。

コンプレックスの強い私には、自信を持たせるためか『エチケット入門』という、素敵な本の贈り物もしてくれました。そして性教育まで! 当時は「子どもにそんなことを言うの?」と思っていましたが、母なりに「今のうちにすべて伝えておかなくては」と考えていたのかもしれません。

忙しい母と触れ合った時間は、1日のうち、せいぜい1時間ほど。でもその1時間は、実に密度の濃い時間でした。こうして母の言葉を振り返る機会をいただくたびに、笑顔でいっぱいだった日々を懐かしく思い出します。

衣装協力/ADORE  abiste 
スタイリング/加藤万紀子  ヘアメイク/ K.Furumoto【&’s management】
構成・文/上田恵子