緊急事態宣言が続き、どこにも出かけられない時期が続くと、家の周りをちょっと散歩…ということが増えてくる。太宰治賞受賞の『空芯手帳』(筑摩書房刊)でデビューした作家の八木詠美さんもその一人だ。

近所を散歩する中で、八木さんが気になった「表札」にまつわる、あることとはー

散歩途中で目に入る表札

よくある話だけれども、新型コロナウイルスが流行するこの一年で、今まで以上に近所を散歩することが増えた。東京の西の方の、小さな住宅地を歩く。

これもよくある話だけれども、こんな家々が近くにあったのかという発見が毎日ある。建物の右半分が明らかに傾き始めている家、ひび割れたミッキーマウスの置物が地獄の門番のように佇む家、黄色いふわふわのモッコウバラの妖精が棲みつく家。

これはよくある話なのかはわからないけれど、次第に家よりも表札が目に入るようになった。多くは苗字だけだ。山田とか鈴木とか田中とか。それが二つ並んでいたり、家族みんなの名前が書かれていることもある。「クッキー」などペットとおぼしき名前が書いてあるとそれだけでむやみに嬉しく、特別な宝物を見せてもらったような気分になる。しかしペットの名前よりはるかに多く、特段には心が明るくならないのが、男性とおぼしきフルネームだけが書かれた表札だ。他の家族の名前はなく、一人分だけ。

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男性一人の表札は、どちらかというと大きい家、古い家に多い。おそらくだけど、年配の方の家。そして一人で住んでいるのかと思いきや、そうではなさそうなケースが多い。私が散歩をしている最中にも、庭で草むしりをしていたりベランダで洗濯物を取り込んでいたりする女性を見かける。陽が落ちはじめた時分の散歩なら、よく手入れのなされた芝生の先の居間で、カーテンをすっと閉めるワンピース姿を見かけたりもする。どうやら表札には書かれていない女性がいるらしい。

もちろん、私が勝手に男性の名前だと勘違いしているが、本当は女性ということもあるだろう。逆に私がワンピースを見て女性だと早合点しているだけで、本当は男性なのかもしれない。しかし漢字だけを見るならば、「茂男」さんや「明夫」さん、「正雄」さんが女性の可能性はあまり高くないような気がする。また、カーテンを閉めている姿が表札の男性だとしたら、その奥のソファにどっかりと座り、軒先までもれてくる大音量で夕方のニュースを見ている影は誰かという疑問が残る。