不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由

電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する
奥井 智之 プロフィール

〈宗教の現在〉を問うとき、もう1つ参照したい、社会学の議論がある。それは、ポーランド出身のイギリスの社会学者ジグムント・バウマンの「祭りのコミュニティ」である(『コミュニティ』)。

ベックとバウマンは、別個のことを論じているのではない。すなわち、バウマンもまた、グローバル化と個人化がとめどなく進行する現在、人々のコミュニティ的な結合が、ズタズタに引き裂かれている状況を問題にしている。

その上で、バウマンは、何かの拍子に──たとえば、プリンセスの死やロック・フェスティバルや「社会の敵」の出現などを契機として──人々の間に、一時的・刹那的なコミュニティが生まれることを指摘している。バウマンは、それを、「祭りのコミュニティ」と呼ぶ。

イギリスの社会学者ジグムント・バウマン[Photo by gettyimages]
 

ネット上の「祭り」を宗教から読み解く

「祭りのコミュニティ」は、昔ながらのローカルなコミュニティとは異なる。後者は、顔なじみの人々がかたちづくる、持続的・安定的なコミュニティであった。あえて過去形で書くのは、ローカルなコミュニティは、いまや、わたしたちの周囲で消滅しつつあるからである。

バラバラになった各人が、メディアを介して、一時的・刹那的なコミュニティをかたちづくる。その一場の夢こそが、「祭りのコミュニティ」である。

わたしは、人々が「自分だけの神」を信奉する状況と「祭りのコミュニティ」に結集する状況とは、1枚のコインの表と裏の関係にあたると思う。そこに〈宗教の現在〉があるというのが、最近、東京大学出版会から刊行した『宗教社会学:神、それは社会である』の主題の1つであった。

ネット記事に話を戻せば、人々が(1)特定のネット記事に対して「自分の所見」を対置することと、(2)同じ立場の人々の間で「共通の認識」を確認することとは、まさに1枚のコインの表と裏の関係にあたる。当該のネット記事には、そこで、「社会の敵」の役割が与えられている。皆で、それを叩くことで、「祭りのコミュニティ」が形成される。

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