不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由

電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する
奥井 智之 プロフィール

ネット記事に、コメント欄が付いているように、コメント欄にも、個々のコメントへの賛否を表明するアイコンが付いている。

わたしのよく見るサイトの場合、デフォルト(初期設定)では、賛同者の多いコメントが、コメント欄の上位に並ぶようになっている。そして、上位のコメントの内容は、おおよそ似通っている。裏を返せば、意見が分かれて、議論が交わされる光景は、まず目にしない

そこには、コメント欄のもつ、もう1つの機能が映し出されている。それは、他の(どこのだれとも知れない)多くの読者と協調することで、自らの意見の正当性を確認することである。一言で言えば、そこには、温かい相互承認の儀礼がある。

激しい自己呈示の欲求と温かい相互承認の儀礼──。この2つは、いったい、どのように結びついているのか。

グローバル時代の〈宗教の現在〉を問う

そのことを解き明かすのに、現代社会学の知見を導入することを、お許し願いたい。

ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、グローバル化と個人化がたゆみなく進行する今日、各人は、「自分だけの神」──自分を愛し、認め、叱り、支え、導いてくれる存在──を信奉するようになっていると説く(『〈私〉だけの神』)。

ドイツの社会学者ウルリヒ・ベック[Photo by gettyimages]
 

「宗教」の原語にあたるreligionは、元々、「結びつき」を意味する言葉である。つまりは、「宗教」は、(1)神仏と信者との結びつきをさすと同時に、(2)信者同士の結びつきをさす言葉である。後者については、社会学者のデュルケームが、「教団のない宗教はない」と断じている。今日、そのような宗教的結合が危機に瀕しているということに、そこでのベックの主張の核心はある。

近年、新旧を問わず、宗教の社会的影響力の低下を指摘する声を、よく聞く。ベックの言う「自分だけの神」は、そのような〈宗教の現在〉を映し出している。

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