不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由

電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する

“短命”なネット記事の儚い運命

ネット記事は儚(はかな)い。

それが、一定の鮮度を保って、人々の前に姿を見せるのは、ほんの一瞬である。良い記事も悪い記事も、次の瞬間には、最初から存在しなかったかのように、ネット世界から姿を消している。

もちろん、それは、アーカイヴ化されているのであろう。しかし、特定の記事を、アーカイヴ(保管庫)のなかで探すのは、特別な目的がある場合に限られる。実際、わたしは、ネット記事がどこかで引用されているのを、見たためしがない。

とどのつまり、ネット記事の寿命は、ごく短い。筆者は、その一瞬に賭けて、自らの作品を、ネット世界に投げ込むほかはない。

オンラインの先には、読者が待っている。正直言って、わたしは、その読者の実態を知らない(わたしは、このネット世界にたまさか迷い込んだ、よそ者にすぎない)。ただ、ネット記事の読者として、しばしば遭遇するのは、その記事が、読者のコメント欄で酷評されている光景である。

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その記事を読むのに、特段の費用がかかるわけではない。「つまらない」と思えば、やり過ごせばよいだけのことである。それでも、そこに留まって、コメントを寄せるのは、いったいなぜか。

コメント欄での自己呈示と相互承認

そこでは、ネット記事を批評することよりも、その記事をダシにして、自らの識見を誇示することが、目的となっているように映る。批評家の小林秀雄は言った。

「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠』)

「懐疑的」であるかどうかは別にして、ネット記事のコメント欄に横溢するのは、激しい自己呈示の欲求である。

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