# フェミニズム

フェミニストはなぜ「からかわれる」のか? 「からかい」という行為のズルい構造

「からかいの政治学」は今も?
江原 由美子 プロフィール

第二に、「からかう」者は、発話の責任を問われないようにするために、自分の言葉を「誰もが知っていること」「みんなそう思っていること」であるかのように、脱個人化・匿名化・普遍化したり、「遊び」という分脈を維持するために積極的に第三者を観客として「共犯者」に巻き込んだりすること。

こうした構造的特徴を持つ「からかい」という行為は、基本的に親密性の確認や表示という機能を持つが、「親密」ではない関係において投げかけるといったの条件次第で、相手を侮辱したり、相手の主張を否定するために利用できる。以下では上に述べたことをもう少しだけ補足しておく。詳しくは、先述した論文を参照してほしい。

 

「からかい」は責任を回避する

語られる言葉は、言葉自体の意味だけでなく、その言葉がどう受けとめられるべきかという文脈的意味を持っている。「現実世界」や「日常生活世界」とは異なる文脈の一つが、「遊び」である。通常、言葉は、発話者の「責任を伴う」言葉として、「真面目に」受け止められる。

けれども「遊び」の文脈では、発話者の責任は問われない。買い物ごっこをしている子供たちの一人が葉っぱ一枚を「100円で買います」と言ったからとしても、その子が本当に100円を支払わなければいけないと思う人はいない。「100円で買う」という言葉は、「買い物ごっこ」という遊びの中の言葉であることが、文脈上明らかだからだ。

「からかい」の言葉も同様に、「遊び」の文脈に置かれている。「遊び」なので、「からかい」の言葉は、発話者の本当の評価や意図、行為等を示してはいないと解釈される。それゆえその言葉は、現実社会での責任を免れる。友達同士が、「お前の顔ってさ、ほんとに変な顔だよな」「何言ってんだ、お前のほうがよっぽど変な顔だよ」などと言い合っても、「相手が本当にそう思っているわけではない」ことを相互に了解しあえれば、たとえ悪口に解釈できるようなことを相手から言われたとしても、冗談として聞き流すのだ。

しかし、このように「遊び」の文脈においては、言葉に対する日常生活における責任は問われないものの、他方において「遊び」のルールを破ることに対しては、強い制裁が参加者に課されることになる。つまり、「からかわれた」者が「怒る」ことは、「遊びのルール」違反として制裁されるのだ。

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