# フェミニズム

フェミニストはなぜ「からかわれる」のか? 「からかい」という行為のズルい構造

「からかいの政治学」は今も?
江原 由美子 プロフィール

誰も、人の笑いものにはなりたくない。メディアの「からかい」は、リブ運動の参加者を嘲ることで、潜在的にはリブ運動の主張に共感したかもしれない女性たちを、リブ運動から遠ざける結果をもたらした。そうであれば、リブ運動参加者が怒ったとしても当然である。リブ参加者の女性たちの発言や文章の中には、「リブ運動が始まって以来、常に嘲られからかわれてきた」ことに対する怒りの表現を多く発見できた。

しかし、この怒りは空回りするしかなかった。リブ運動参加者たちが怒りを表明すればするほど、メディアはそれを、リブ運動が「怖い」「ヒステリックな」「男嫌い」の運動であるという自らの主張の正しさを証明する証拠のように、報道できたからである。

 

「からかいの政治学」

「なぜ女性運動は、『からかわれる』ことが多いのか?」「主張に対してきちんと反論されるのと、『からかわれる』のでは、運動に与える影響にどのような違いがあるのか?」。リブ運動史を書く中で、私の中に、こんな問いが生まれた。

「対面的相互行為論」や「多元的リアリティ論」等の社会学理論を応用して、この疑問を解くことができないか。そんな疑問に突き動かされて、私は40年前、「からかいの政治学」という論文を書いた(「からかいの政治学」、『増補 女性解放という思想』、ちくま学芸文庫、2021年刊所収)。

「からかい」は、「からかう」側から「からかわれる」側に向けた、行為の一形式である。家族や友人たちと「からかいあう」のは、たいていの場合、たわいない楽しい時間である。しかし、この同じ「からかい」の行為が、他者の人格を否定し侮辱する行為にもなる。人を孤立に追い込み絶望させる「いじめ」にもなる。相手の主張を「取るに足らないもの」として否定する、政治的行為にもなる。

なぜそうなるのか? それは次のような理由からである。第一に、「からかい」が「日常生活世界」ではなく「遊び」の世界に位置づいているがゆえに、「日常生活世界」において話し手に求められる「発言に対する責任」を免れていること。

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