「いびつな関係」だからこそ必要

そんなふうに命短い「推し」だからこそ、自然と「推す」ほうも必死になる。チケット戦争に勝ち、平日の昼間や夜の自由時間をもぎとり、フットワーク軽く遠征するには、運も気力も体力も時の運も必要。「推し」のステージを観ているときはまさに血眼になってきらめきを探し、心のメモに殴り書きし、終演後は熱の冷めないうちに思いをSNSに吐き出す。

「語彙力(がない)」と一言で片付けたくなる誘惑と必死に抗いながらなんとか紡がれる、ほかの誰かの「推し」語りを読むこともまた「推し」ごとのおおきな楽しみだ。きっと『推し、燃ゆ』があれほどセンセーションを巻き起こしたのも、なにより「推し」ている人の熱のほとばしりを伝える文体の前のめりなドライブ感が大勢の人にまぶしく(そして「推し」のいる人には身につまされると)思われたからだろう。

芥川賞を受賞し大きな話題になった作品。宇佐美りん『推し、燃ゆ』/河出書房新社
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しかしそれにしても、なぜそれが「2.5次元」でなければならないのか。『推し、燃ゆ』では、恋愛や友情や家族と違って、どんなに熱をこめて「推し」ても報われることのない一方的でいびつな関係が、だからこそ自分には必要なのだと主人公は語る。

携帯やテレビの画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを賭けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。
(『推し、燃ゆ』より引用)