堪忍袋の緒が切れてもいい頃
ワクチン行政では世界から大きく遅れをとり、未だに医療従事者の1回目の接種すら完了しておらず、経済活動を全面的に再開することができる見込みもたっていない。政治家や行政が、国民には「自粛しろ」と我慢を重ねさせながら、一方で自分たちは飲んだり食ったりやりたい放題、しかもコロナ対策もうまくいっていない。
そんな状況で杓子定規に「あ、今回から酒も自粛してね」とゴールデンウィークの直前に言われても、納得がいかない人も多いだろう。
毎日マスクをしたり、赤字でも行政の要請に従ったり、申請したのに支援金が来なかったり、終息したと思ったらまた感染者数が増えたり。これほどまでに我慢に我慢を重ねているのに、どうして「店で酒を飲みながら食事をする」という、ささやかな娯楽ですら奪われなければならないのだろうか。そろそろ日本人の堪忍袋の緒が切れてもいい頃である。
日本人は礼儀正しく、みんながマナーを守る人種だと思っている人がいる。しかしそれは思い違いだ。
それが一番分かるのが、駅のエスカレーターである。あれだけ掲示や音声で「ベルトを持ってお立ちになり、歩かないでください」「片側のベルトにしか捕まれない人もいます」とルールやマナーを明示しているのに、みんながわざわざエスカレーターの片側を空けて、なぜか人を歩かせている。正しく子供の手を持って左右に乗っている親子連れを突き飛ばしてまで歩く輩もいるくらい、エスカレーターのルールやマナーは守られていない。
日本人が守っているのはルールやマナーではなく、その場の「空気」である。空気さえ変われば、日本人は平気で自粛要請というルールやマナーを破るようになる。
最近目にするようになった、駅前の広場などの路上で飲酒を行いゴミを散らかすような人たちは、堪忍袋の緒が切れて、空気を変えようとしている人たちである。今でこそ迷惑者扱いだが、これがそろそろ真っ当な先行者と認められても、僕は驚かない。
酒を呑むことは人間にとって決して必須ではない。酒を呑まなくても生きていける。だから感染防止のために自粛させてもいい。ということにはならない。
人間は決して必須でないことをすることに、人生の意味を見いだしたり、喜びを感じたりするのである。それを「奪う」ことの意味を、政治家たちは本当に理解しているのか。僕には疑問である。