戦時中のメディアは「特攻」をどう報じ、国民はどう受け止めたのか

「非常時」の報道に学ぶべき教訓とは
4月12日に発売された『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。
 
4月12日発売。定価:1430円(税込)。講談社ビーシー/講談社。 真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた「大嘘」など全11章の、これまで語られることがなかった太平洋戦争秘話を収録。
第6回は、第十一章「日本人なら知っておくべき『特攻の真実』」に関連して、「特攻」を煽り続けた戦時中のメディアの報道について記してみたい。
 

新聞、ラジオ、報道映画による総礼賛!

〈神鷲の忠烈 萬世に燦(さん)たり
 神風特別攻撃隊 敷島隊員
 敵艦隊を捕捉し(スルアン島海域)
 必死必中の體當(たいあた)り〉

――これは、太平洋戦争末期、爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に体当りする「神風特攻隊」のニュースを報じた、昭和19(1944)年10月29日の朝日新聞(東京本社版)の一面トップ記事の見出しである。

「特攻」を最初に報じた昭和19年10月29日の朝日新聞(ラジオ発表は28日午後5時)

10月28日午後5時のラジオニュースで、特攻隊の体当り攻撃が初めて公表されるや、29日、新聞各紙は、一面のほとんどを割いて、フィリピンで出撃し、10月25日に敵艦に体当りした関行男(せき ゆきお)大尉以下、神風特別攻撃隊(特攻隊)敷島隊の初戦果を報じた。

フィリピンで、基地航空部隊である第一航空艦隊(一航艦)司令長官として着任したばかりの大西瀧治郎中将によって特攻隊が編成されたのは、昭和19年10月20日。「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊(爆装機13機、直掩機13機)が編成され、その4隊の総指揮官として23歳の関大尉が選ばれた。

同年6月、「マリアナ沖海戦」で大敗した日本海軍は、フィリピンを次の決戦場と想定し、航空兵力を集中していた。

だが、ミンダナオ島ダバオで、見張員が白波を敵の大上陸部隊と見間違えたのを司令部が確認もせずに壊走(ダバオ水鳥事件)、幻のダバオへの敵上陸に備えて戦闘機をセブ基地に集中させたところへ米機動部隊艦上機の空襲を受け、虎の子の戦闘機が壊滅(セブ事件)。その責を負って一航艦司令長官だった寺岡謹平中将は更迭される。

10月17日、米軍がレイテ島湾口のスルアン島に上陸を開始し、寺岡の後任として大西中将がマニラに到着したときには、フィリピンに海軍の飛行機は35機~40機しか残っていなかった。

聯合艦隊は、総力を挙げてレイテ湾の敵上陸部隊を迎え撃つ「捷一号作戦」を発動したが、それを支援するべき航空兵力がすでにほとんどなくなっていたのだ。

この少ない機数で主力艦隊のレイテ湾突入を成功させるため、敵空母の飛行甲板を破壊し、一時的にせよ使用不能にしようという、いわばやむにやまれぬ事情で編成されたのが、フィリピンでの最初の特攻隊である。

爆弾を搭載し、特攻機として出撃する零戦

「特攻」自体はすでに海軍の既定方針になっていて、人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」をはじめとする特攻兵器の開発は始まっていたが、それとこれとはやや意味合いが異なる。

「敷島隊」以下の特攻隊は、10月21日以降、米艦隊を求めて出撃を繰り返し、23日には「菊水隊」も編成される。その間に2名の行方不明者を出したが、25日になって初めて、菊水隊、朝日隊、敷島隊、大和隊の順に米護衛空母部隊への突入に成功、のべ10機の爆装特攻機の体当りで、護衛空母1隻を撃沈、5隻に損傷を与えた。敷島隊でいえば、これが4度めの出撃だった。

冒頭の新聞記事は、このことを報じたものである。関大尉が直率する敷島隊が前面に出ているのは、関大尉がこのとき一航艦で編成された特攻隊の総指揮官であったことと、敷島隊だけが准士官以上の直掩機搭乗員による戦果確認がなされ、司令部に報告が届くのもいちばん早かったからである。

これまでも、被弾して還れる見込みがなくなった飛行機が、自ら敵艦に体当りしたなどの例はあったが、はじめから体当りを目的にした部隊の出撃は前例がない。この前例のない事態を、新聞は大きな興奮とともに伝えた。

最初に特攻を報じた10月29日の朝日新聞では、特攻を

〈身を捨て國を救ふ 崇高極致の戰法〉

とまで持ち上げ、社説でも特攻隊を讃えている。

特攻隊の興奮は、なおも続く。朝日新聞の一面トップ記事の見出しだけを拾っても、11月1日の〈神風隊 連續猛威振ふ〉に続いて、11月2日には〈神鷲敷島隊 今ぞ進發〉と題し、出撃直前の関大尉や、飛行機事故で骨折、松葉杖をついて来た山本栄・第二〇一海軍航空隊司令の見送りシーンが紹介されている。さらに11月8日には、〈凄絶 比島沖海戦・神風特攻隊の出撃〉と題し、敷島隊の発進シーンや別杯の写真が大きく掲載されている。

11月2日の朝日新聞では、出撃直前の関大尉や、松葉杖をついた山本栄・第二〇一海軍航空隊司令の見送りシーンが紹介されている

11月8日、全国の映画館で上映された「日本ニュース」第232号では、NHKの国民歌謡として広く知られた「海行かば」の旋律に乗せて、敷島隊5名の氏名、次いで、

〈神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日○○時「スルアン」島の○○度○○浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を捕捉するや必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破巡洋艦一隻轟沈の戦果を収め悠久の大義に殉ず 忠烈万世に燦たり
 仍(よっ)て茲(ここ)に其の殊勲を認め全軍に布告す
   昭和十九年十月二十八日
   聯合艦隊司令長官 豊田副武〉

との布告文のテロップが流れ、10月20日の大西中将との別盃、21日の出撃前の整列、25日の出撃シーンまでが1日の出来事のように編集して上映された。

昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿は大西中将。向かって左から、副官・門司主計大尉、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
10月21日、マバラカット西飛行場で、出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿向かって左端が関大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊
10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進。手前で松葉杖をついているのは、19日、飛行機事故で負傷、入院し、24日夜に退院して見送りに駆けつけた二〇一空司令・山本栄大佐(Wikipediaでは10月21日とされているが、山本司令が写っていることからも明らかな間違い)

出撃シーンでは、谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹が詠んだ、

〈身は軽く 務(つとめ)重きを思ふとき 今は敵艦にただ体当り〉

の辞世が紹介されている。

「神風特別攻撃隊」の命名者は、第一航空艦隊の猪口力平先任参謀である。猪口は、

「人間が『かみかぜ』じゃおかしいから『しんぷう』と読むんだ」

といい、以後、フィリピンの現地部隊では「しんぷうとくべつこうげきたい」と呼ばれている。これを、内地に「かみかぜ」と読んだ記事を送稿したのは、同盟通信の小野田政記者である。

カタカナの新聞電報で「シンプウ」と送るより「カミカゼ」と送ったほうが、本社で漢字に変換するときの間違いが少ないと判断したためだった。そのため、内地では「かみかぜ」のほうが一般的な呼称になった。

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