「助け合いの美しさ」があぶり出す“公助なき社会”という残酷な現実

『サンドラの小さな家』が描く「家」
河野 真太郎 プロフィール

「どこにもない場所」を目指して

さて、最後に『サンドラの小さな家』に戻ろう。『サンドラ』も『ノマドランド』と同様にユートピア的であると言える。つまり、それは現実の上ではばらばらにされてしまったコミュニティを映画の物語の中で想像し直そうとする。

 

『サンドラ』と同様『ノマドランド』についても問わなければならない厳しい疑問は、これらの映画はそれぞれに想像的なコミュニティを提示するが(『ノマドランド』の場合はノマドのコミュニティであるし、『サンドラ』の場合は「メハル」の助け合いコミュニティである)、そういった小さなコミュニティの助け合いで解決される問題は、本当は(最近日本でもよく聞く言葉を使えば)「公助」によって解決されるべきものではないのか、というものだろう。

この言葉を使ったのでついでに言い換えれば、これらの映画は「自助」と「共助」の徳を強調することで、「公助」の不備を不問に付してしまいはしないか、という疑問だ。

具体的には、『サンドラ』の背景となる住宅問題については、最初に述べた不動産バブルの問題と同時に、政府が2010年以来、公営住宅を払い下げる「借りてから買うRent to buy」の政策を進めていたこと(同様の政策はイギリスでもサッチャー政権以降に行われている)によって、住宅をめぐる「公」が弱められてきたという問題がある。そのような問題を不問に付してしまわないか。

そのことは、『キャシー・カム・ホーム』と、『SWEET SIXTEEN』との比較で際立つ。これらのケン・ローチ作品は、公助が欠けているところで(またこれらの映画では共助=コミュニティも欠けているところで)「自助」だけに訴えたところで、それで救われる人間は限られているという事実をつきつけた。

もちろんこのような問いの立て方は性急にすぎるだろう。公助がうまくいっていないなら、共助や自助でなんとかしなければならないのが現実ではある。だが私たちは、共助や自助を美しい物語にして納得してしまうことには、抵抗しなければならないだろう。

私が『サンドラの小さな家』や『ノマドランド』を「ユートピア的」と呼ぶのは、そのような抵抗のつもりである。ユートピアはどこにもない場所だ。そのような場所を指ししめすことは、私たちの現実の不備を浮き彫りにするための優れた方法になるだろう。映画の外の多くのサンドラたちを救うためには、「公助」の水準を見直すことが絶対的に必要であろうから。

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