「助け合いの美しさ」があぶり出す“公助なき社会”という残酷な現実

『サンドラの小さな家』が描く「家」
河野 真太郎 プロフィール

『ノマドランド』とホームレスというコミュニティ

さて、ここまでケン・ローチ監督の2つの作品を取り上げながら、『サンドラの小さな家』の読解について補助線を引いてきた。次に、現在公開中の『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督)を読み解いていこう。

 

『ノマドランド』もまた、「住まい」をめぐる、というより「家がないこと=ホームレスネス」についての物語である。だが、大西洋を渡った広大な大陸を舞台とするこの作品は、ここまで見たアイルランドやイギリスの作品とは様相を異にしている。

『ノマドランド』はジェシカ・ブルーダーによるノンフィクション『ノマド──漂流する高齢労働者たち』(鈴木素子訳、春秋社、2017年)を原作とする映画である。映画版には原作で取材されているリンダ・メイやシャーリーン・スワンキー、ボブ・ウェルズが本人役として出ている。(これはジャオ監督が前作『ザ・ライダー』でも使った手法である。)

原作は作者がリンダ・メイらの、トレーラーハウスで放浪しながら季節労働をする高齢者たちを追っている。それに対し映画版はファーンという登場人物を設定し、彼女の視点を中心にノマド生活者たちを描いていく。

ファーンはネヴァダ州のエンパイアという、建材の石膏ボードを製造していたUSジプサム社の工場城下町で代用教員をしていた。ところがリーマン・ショックのあおりの建築不況で工場は閉鎖され、工場に依存していたエンパイアという町が、文字どおりに郵便番号ごと消滅してしまう。最近夫を病気で失ったファーンは、持ち物を売ってバンを購入し、放浪生活に入る。

この作品のノマドたちは(そして原作に登場する現実のノマドたちも)、かつては中流の暮らしをしていたのが金融危機と不況によって没落した人びとだ。だがここで興味深いのが、彼女ら・彼らがそれを単に否定的なものとはとらえずに、一種の積極的なライフスタイルとして、自由をもたらしてくれるものとして意味づけしていることだ。

これは、ホーボー(19世紀終わりから20世紀初頭の、列車に無賃乗車などしながら渡り歩いて季節労働をした人びと)の伝統のあるアメリカならではというところがあり、アイルランド・イギリスとのお国柄の違いをまずは感じる。スクリーンに展開される、アメリカ大陸の荒涼とした美しさが、その感を強くさせる。

だがその一方で、この映画と『サンドラの小さな家』や『SWEET SIXTEEN』は同じ歴史的条件を共有しているということもまた強く感じられる。『ノマドランド』は製造業が失われることでコミュニティそのものが根こぎになったポスト産業状況を描く。

ファーンがまずはアマゾンの倉庫での季節労働をすることは、ポスト産業・労働者階級的な労働の表象になっている。(アマゾンやウーバーといったポスト産業的な労働の実態についてはジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で発狂し、ウーバーの車で絶望した』(濱野大道訳、光文社、2019年)と、ケン・ローチ監督『家族を想うとき』を参照。)

住宅という点では、『ノマドランド』のエンパイアの消滅はサブプライム・ローンというデリバティヴの住宅ローンの破綻によるものであった。ここには強烈な皮肉がある。サブプライム・ローンはアメリカの貧困層にも持ち家の夢を与えた。ファーンの暮らしたエンパイアは、おそらくそのような住宅のための建材の製造で栄えた。

だが、そのサブプライム・ローンの破綻は、貧困層からも、ファーンらエンパイアの人間からも「家」を奪った……。すべてはリスクをとって利益を追求する金融資本主義の結末なのである。

述べた通り、『サンドラ』のアイルランドにおける住宅危機も投機によって引きおこされた部分がある。ポスト産業の金融資本主義が人びとの住宅の状況を左右するような状況を、この2本の映画は共有している。

そのような労働の状況と住宅事情はやはりコミュニティの問題に収斂するだろう。その点で、ここまで挙げた映画は広く同じ状況──労働者階級がコミュニティとしては機能しなくなった状況──を共有している。

『キャシー・カム・ホーム』と『SWEET SIXTEEN』のケン・ローチ監督は、そのような苦境に対して安易な解決策を与えることをどこまでも拒否する、厳しい眼差しの持ち主である。

『ノマドランド』の場合、ファーンは完全な根無し草のままであるわけではなく、ボブ・ウェルズの主催するノマドのコミュニティに、最初はためらいながらも参加していく。最終的にファーンはそこでの経験とウェルズとの語らいの中で、根を張ることなく放浪し、それでも他者とつながったコミュニティのあり方にたどり着く。

このコミュニティがノマドたちを物質的に助けるのかどうかは未知数ではある。けれども、そこにはポスト産業状況における独特のコミュニティのあり方へのユートピア的な希求だけは存在している。

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