人間に神は必要か? 近代社会が失った「信仰」を問い直す

神の追放がもたらした現代社会の歪み
佐藤 弘夫 プロフィール

近代社会が失ったもの

わたしはいま、いまだかつてカミをもたない社会は存在しなかったと述べました。しかし、現代社会の大勢は、この社会からカミそのものを排除する方向に動いているようにみえます。

前近代の社会では、世界を構成するのは人間だけではありませんでした。神仏や死者や動植物が、人と一緒になって一つの世界を作り上げていました。世界中に残る巨大な神殿の遺跡をみればわかるように、カミがこの世の主役を務める時代が長く続いてきたのです。

カミはそれぞれの社会において、どのような役割を果たしていたのでしょうか。わたしはその重要なものの一つに、人間関係の緩衝材―クッションとしての機能があったのではないかと考えています。カミが社会的関係の隙間を充填することによって、人間同士・集団同士が、利害や感情をむき出しにして直接ぶつかり合うのを防ぐ役割を果たしていたのです。

そうした前近代の社会のあり方に対し、人間以外の存在をこの世から追い出して、人が主人公として君臨する世界を作り上げたのが近代という時代なのではないでしょうか。 

もちろん、それは決して悪いことではありません。人間みな生まれながらにして平等で、尊重されるべき人権を持っているという理念の定着をもたらしました。しかしその一方で、カミの追放がある種の歪みをこの社会にもたらすことになったように思われるのです。それは人間関係を柔らかく包み込んでいた緩衝材の消失であり、死後の世界との断絶です。

信仰を問い直す

福岡県の沖ノ島は「海の正倉院」といわれる島で、世界遺産に指定されている四世紀から五世紀にかけての祭祀遺跡がそのまま残っています。日本から朝鮮半島や大陸に渡る人々は、この沖ノ島に上陸しては航海の無事を願って神に祈りを捧げました。当時の人々にとって、大海と無人島はカミの所有する地でした。心身を清めて神に祈りを捧げたのはそのためでした。

ところがいまはどうでしょう。たとえば竹島(独島)の問題があります。日本と韓国双方が、「わが国固有の領土だ」といって争っています。単に政府が主張しているだけではありません。国民同士が、このちっぽけな無人島のために相互に憎しみ合うような状況に陥っているのです。

身と心を清めて神に敬虔な祈りを捧げた昔の人々と、大海や荒野に勝手に国境線を引き、その線引きを巡って顔をあわせたこともない者同士が罵り合う現代人と、どちらがあるべき姿なのか。わたしたちはいったん立ち止まって、じっくりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。

死の問題も同様です。冒頭で触れたように、この列島に住む人々は、死後も縁者と長い交流を継続しました。生者と死者の交流の場とそれを支えてきた死生観が、いま現代社会からしだいに姿を消しつつあります。生と死の世界は分断され、死は未知の国となり、忌避すべき暗黒の領域と化してしまいました。死にゆく者を一分一秒でも長くこちら側に引き止めることが、現代医療の目的となりました。

けれども、世界中にみられる生者と死者の交渉の歴史が教えてくれるように、普通の人間は自身の死と共にすべてが消え去ってしまうという感覚に耐えることができません。人が穏やかで満ち足りた生を送るためには、人と不可視なるものが共存する世界観と、生と死を貫くストーリーが必要なのです。

近代文明が行き詰まったこの社会であるからこそ、わたしたちは生者と死者が日常的に交流するどこか懐かしい空間や、目に見えぬものが人間関係を穏やかに包み込むかつての世界観に、改めて光をあててみてもいいのではないでしょうか。

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