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人間に神は必要か? 近代社会が失った「信仰」を問い直す

神の追放がもたらした現代社会の歪み
社会から神を追放してきた「近代」の世界。その結果が、現代社会の様々な歪みとして現れていると、日本思想史の大家・佐藤弘夫氏は言います。なぜ今、改めて古来からの「信仰」のあり方をとらえ直す必要があるのでしょうか?
先史から現代まで、神をめぐる想像力を通して「日本人の心の歴史」を解き明かした『日本人と神』の刊行記念エッセイをお届けします。

死者を想うとき

桜の花が散り、新緑が日々刻々と色を変える季節になりました。60代も半ばを越えたいま、昔なら気づきもしなかった折々の自然の小さな変化に心が留まります。外国に行く機会の多いわたしは、世界各地で印象に残る光景を目にしてきましたが、日々微妙に表情を変えながら移り行く日本の四季の美しさは格別です。

日本列島には、季節を彩るさまざまな年中行事があります。その中心をなすものが、お彼岸とお盆のお墓参りに代表される死者供養の儀礼です。いまやレジャー期間の代名詞となってしまった観のあるお盆ですが、それでもその時期になると墓地は花で埋め尽くされ、香の香りで満たされます。

お盆の死者供養(photo by iStock)

わたしもまた、お盆には宮城県南部の田舎にある先祖代々の墓地を訪ね、花を手向け、香を焚くことを長年の習慣としてきました。わたしの家の墓地は、村を見下ろすことのできる小高い丘の中腹にあります。掃除と墓参を終えると、わたしは墓地の一角の木陰に腰を下ろし、しばらくふるさとの景色を眺めることにしています。

山の麓に沿って点在する家々の先には、黄色く色づきはじめた水田が広がり、それを波打たせながら渡っていく風がみえます。田園を縫って流れる阿武隈川の水面が、光る帯となってきらめいています。

わたしもやがてはこの墓地に眠り、折々の縁者の訪れを心待ちにしながら、懐かしいふるさとの風景を眺めることになるのだろうか—ふと気付くと、いつもそこには、死者の眼差しで故郷を眺めている自分がいるのです。

こうした感覚はわたしだけのものではなく、おそらく大多数の日本人が共有する感覚ではないでしょうか。死者はもはやこの世に存在しない人物です。普通の人は、その声を聞くことはできません。存在を確認できないという点からいえば、国土に無数に存在する神社や祠に祀られた神々も同様です。しかし、日本列島ではそうした目にみえないものたち(カミ)が実在することを前提として、きめ細やかな交流の作法が練り上げられてきたのです。

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