女性の悲しみや恐怖をすごく丁寧に描いている

いしい 本上さんが読んでいて、印象に残った場面などはありましたか。

本上 「葵」帖の、ストーリー展開が緻密に練り上げられているところに圧倒されましたね。すごくドラマチックに、いろいろな要素が凝縮されて、さまざまな女性の人生が描かれています。光君の子どもが誕生し、正妻の葵の上が亡くなり、紫の上と結ばれ…。盛りだくさんな内容をよく一つの帖にまとめたなと。「葵」帖だけで一つの物語として成り立っていて、さらにこれが大長編の一つの帖だなんて。紫式部という一人の女性がこれを書いたことのすさまじさに、圧倒されました。

いしい しかも、彼女の前にこんなことを成し得た人は、世界中で誰もいなかったわけですからね。

本上 六条御息所が、生き霊となって葵の上に取り憑くじゃないですか。無意識なんですが、六条御息所は自分が生き霊になっているんじゃないかと自分自身を疑って、悲しみや恐怖を味わっている。そういう、女性の感情をすごく丁寧に描いていることにも、ぞわっとしましたね。どうしても衝動が抑えられなくなった人の、破滅に向かっていく様、人間の業が描かれているんですよね。
そして葵の上が亡くなった後、光君が葵の上の両親とも次第に疎遠になって、縁というものはこうして薄くなっていくんだなという無常観までもが、しっかりと描かれていて。
いしいさんは、書いていて「面白いな」と思ったところって、どんなところでしたか。

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紫式部は夕顔を死なせたくなかった?

いしい 息づかいを感じながら読んで、書いていると、明らかに「式部さんは、ここが書きたかったんでしょう?」という箇所がわかるんですよね。すごくリアルに迫ってくるんです。
それは特に、人が死ぬシーンなんですけれども。それでも葵の上が亡くなってしまうところは、計画立てて緻密に書けている感じがあるんです。でも、夕顔が死んでしまうところは、紫式部自身もどうしたらいいかわからないというままに、引きずられて、落ち込んでいくような感じで書いているんです。これこそ、「物語」なんですよ。「自分ではどうしようもない何かに突き動かされて、語ってしまう大きな流れ」なんです。

本当は筆者として、夕顔を死なせたくなかったのかもしれないと思うほど、紫式部は何かに引っ張られて書いていたのではないかと思います。
そしてその書き方がやみつきになって、「もう一回こんなふうに書きたい、もう一回」という気持ちで、54帖もの大長編をずうっと書き続けていったような、そんな気さえします。

紫式部がどのくらいの期間をかけて書いたのか、あるいはどういう順番で書かれたかも、まだ解明されていないんですって。

本上 不思議……。改めて『源氏物語』は、人間の感情のきれいなものも、汚いものも、本当に恐ろしい部分もすべてが描かれている作品で、そこがやっぱり面白い、魅力に感じる部分なんだということがよくわかりました。いしいさんの『げんじものがたり』でそれを知ることができて、本当によかったです。

いしい しんじ
1966年大阪市生まれ。京都大学文学部卒。96(平成8)年、短篇集『とーきょーいしいあるき』(のち『東京夜話』に改題して文庫化)、2000年、初の長篇小説『ぶらんこ乗り』刊行。03年『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で第29回織田作之助賞、16年『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。その他の小説に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『よはひ』『海と山のピアノ』『マリアさま』、エッセイに『京都ごはん日記』『且坐喫茶』『毎日が一日だ』『きんじよ』『ピット・イン』など。09年から京都市在住。
本上 まなみ
1975年東京都生まれ、大阪府育ち。俳優、エッセイスト。俳優として近年では映画「そらのレストラン」(2019年)や、フジテレビ系大人の土ドラ「パパがも一度恋をした」(20年)などに出演。現在公開中の映画「モンテッソーリ 子どもの家」では日本版のナレーションを務めている。またNHK「あさイチ」、TBS「世界ふしぎ発見!」、NTV「遠くへ行きたい」などにも出演している。エッセイ集『落としぶたと鍋つかみ』(朝日新聞出版)など、著書も多数刊行。WEB『みんなのミシマガジン』(ミシマ社)でエッセイ「一泊なのにこの荷物!」を連載中。現在、京都市在住。