イラスト/植田たてり

宗教には、心身をなげうって飛ばねば見えない領域がある

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第一信・A
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について論じあう新企画! 毎月、交わされる「往復書簡」の行方やいかに? 第一信は、釈氏から若松氏へ。テーマは「信じる」。

はじめに

このたびは私の勝手な提案をご承諾いただき、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。

とにかくどなたかと「宗教について」「宗教領域を構築している諸要素について」じっくりと語り合いたかったのです。それで「この人と語り合いたい」と思い浮かんだのが若松さんでした。これまでも何度かご一緒しておりますが、何かをテーマに掲げて深く掘り進めるといった対話はまだ行っていなかったように記憶しております。

できれば対面で時を忘れてガチで語り合いたい、とも考えておりましたが、新型コロナの感染状況やお互いの都合を鑑み、往復書簡という形態となりました。おつき合いのほど、どうぞよろしくお願い致します。

さて、若松さんから「では『動詞』でテーマを設定しませんか。たとえば、『信じる』『読む』『語る』『見る』『疑う』『修める』『いつくしむ』など」との提案をいただきました。ぜひその方針で進めたいと思います。

そこで、「信じる」から始めることにします。

考えてみれば、「信じる」という営み無しには、私たちの暮らしは成り立たないですよね。駅に行けば電車に乗れるとか、お願いすれば手伝ってくれるとか、明日はやって来るとか、いずれも漠然とした信憑を基盤にしています。それらのすべてを疑うと、生きていくのはとても困難になります。

でも、我々がここで論じようとする「信じる」は、宗教フィールドにおける信仰や信心の問題です。時には自分の生命をも賭す事態にまで突き進む信仰や信心……。これについて思いつくまま語り合いましょう。

 

単独者の飛躍

私たちは、この世界を言葉や理念で分節して認識しております。民族・国家・信仰なども、この世界を分節するある種のストーリーであり、ナラティブです。ここではそのようなストーリーを“もの語り”と表現することにします(意味の体系である「物語」と、「語る」という行為とを合わせたニュアンスを出したいからです)。その“もの語り”に自己投棄する営みが、私の信仰のイメージです。

実存主義哲学の祖とされるキェルケゴールは、聖なる領域の前にただ独りで立ち、ついには聖なる領域へと身をゆだねる(飛躍する)行為を「信仰」を呼んでいます。私はこの構図に影響を受けているようです(それぞれの“もの語り”が呼応したり、互いに懸架したりする作業が重要であることについては後述します)。

また、その自己投棄は、自分の意思では成し得ないのではないでしょうか。自分ではとても飛躍できそうにもありません。崖のフチあたりまでは、自分の意思で歩いて行けるのですが、そこから先は……まさに自分の意思や都合ではいかんともし難い領域です。自己投棄しなければ信仰の扉は開かないのに、自分じゃ投棄できないというややこしさ。

こういうお話をしていると思い出す人がいます。司馬遼太郎です。

司馬遼太郎という人は、宗教領域にも造詣の深い人でした(司馬遼太郎の作品から「宗教的感性」を学んだ人は意外と多いはずです。宗教の本質に迫る言葉の数々が息づいているからです)。その司馬が次のようなことを述べています。

「ぼくは死ぬ一秒前に『南無阿弥陀仏』で救われるつもりです。なんとなくそういう安心があるから、いろんなはからいの中で生きていられるわけで」『宗教と日本人』

司馬遼太郎は信仰に身をゆだねるのを拒み続けたわけです。ぎりぎりまで知的営為で人間や社会に肉迫しようとしたのでしょう。

宗教には心身をなげうって飛ばねば見えない領域があります。理性や知性ではどうしても届かない世界があるといってよいでしょう。そのことを司馬はよくわかっていました。しかし、司馬はその境界線の極限まで歩み続けようとしたのです。そして、最後の最後に、ばっと飛ぶつもりだったわけです。実に興味深い人です。

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