男女関係ない「自分らしさ」

幼い頃、男なんだから外で遊びなさい、ご飯をおかわりしなさい、大きい声ではきはき喋りなさい。と育てられた。祖父母と同居していたこともあり古き家族像のもと厳しくも守られながら育った。
しかし両親の期待とは裏腹に、今、休日は家から一歩も出ないことも多いし、自信がない時は声も小さくなる。個性を教育で上書きすることは難しかったようだ。

泣かないこと、強くたくましくあること。男であるが故のこれらのパフォーマンスに、幼いながらに違和感を抱いていた。男だって泣きながら逃げ出したいときはいくらでもある。
小学生の頃、友人の誘いで始めた少年野球も、本心では毎週末を拘束されることに窮屈さを感じ、いつからか辞めたくて仕方がなかった。本当はピアノを習いたかったが、とても言い出せなかった。
なんとなくずっと野球好きの少年を演じていたが、野球の神には全てお見通しだったようで、幸か不幸か不思議とベンチを温める機会が増えていった。
今でも雨が好きなのは、あの頃の雨乞いの影響なのだろう。

写真提供/バービー
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社会人になると「結婚したら男は自分を犠牲にするものだ」「独身のうちに思い切り遊んでおいた方が良い」などといった男性の先輩達からの結婚に対するネガティブインプットが相次いだ。早いうちに結婚した同期からも同様だった。薬指に光る結婚指輪はとても綺麗だったのに。
そんな話を耳にするたびに、なぜ結婚したんだろう?自分が望んだはずだよな?といった問いが湧き出てくるも、口には出さずビールで流し込むことにしていた。

なぜ人はそこまで結婚にこだわるのだろう。パートナーや子供を自ら人質にして、自分自身の人生を削いでいくような虚しさをおぼえた。
「男らしく」いなければと思いこみ、結婚すれば、無意識にパートナーにも「女らしく」いることを求めてしまう。
お互いを苦しめてしまう結婚は避けたいと、相手がいないにもかかわらず考えていた時期もあった。

その点、彼女とはお互いが自分らしさを尊重しながら生きていけると感じた。僕にとって初めての同棲だったため幾らかの不安はあったが、求めすぎることなく、お互いの得意不得意を把握し、なんともうまいこと生活がまわっている。依存せず、自分のことは自分で、が僕たちのモットーだ

特に役割をきっちり分担しているわけではないが、彼女が夕食を作っている間に僕は洗濯物をたたむ。ベッドメイキングと洗面台掃除は彼女、風呂掃除とゴミ出しは僕、といった具合だ。
効率的に生きることが好き、という貴重な共通点を生かし、不得意を押し付けることなく生活している。

お互いが好きなこと・得意なことをしているのだが、これが意外にも感謝し感謝され何とも心地よい。
彼女には結婚後も大いに飲み歩いて欲しいし、彼女らしくテレビでお尻を出し続けて欲しい。

写真提供/バービー