2021.04.18

使徒は配達人

「社会性の起原」89

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

使徒は配達人である

道徳のひとつの条件は、規範性にある。そして規範の存在(に見えること)は、結局、「権威ある他者」という現象に還元することができる。いや、還元しなくてはならない。前回、このように論じた。

だが権威とは何か。この問いに答えようと、われわれは、キェルケゴールを引いたのであった。キェルケゴールは、「天才/使徒」というダイコトミー(二分法)を使って、権威が何かを規定した。権威は、天才ではなく使徒の方に属している。天才が語っていることが受け入れられるのは、それが真理だからである。使徒が語ったことが人々を捉える理由は、これとはまったく違う。使徒の言明は、まさに彼(あるいは彼女)が語ったがゆえに、受け入れられる。これこそが、権威という現象である。権威は、その外部に根拠をもたない。ここまでは、前回述べたことであった。分かりやすく言い換えれば、師と教えとの関係において、師が教えに優越しているのが、権威である。教えが正しいからその師に従っているのではなく、師への帰依が、教えに真理としての資格を与えているのだ、と。

ところが、キェルケゴールは、こうしたことを論じている同じ小論の中で、これとまったく矛盾している——ように見える——ことも書いている。使徒は外交使節に喩えられるというのだが、どういうことか、まずはそのまま引用しよう。

彼〔使徒〕に伝えられた教義は、彼が熟慮するために与えられたものではない。教義は、彼のためのものとして与えられているわけではないのだ。そうではなく、彼は伝道の務めを担っていて、ただ教義を告知し、権威を使用する。使徒は、手紙を携えて、別の都市に送られた人物のようなものだ。手紙の内容はその人物には関係がない。彼はただ手紙を届ければよいだけだ。あるいは、使徒は、外国の宮廷に派遣された公使のようなものだ。公使は、メッセージの内容には何の責任もなく、ただそれを正確に伝えることを任務としている。これらと同様に使徒は忠実に奉仕し、その仕事を遂行しなくてはならない*1

使徒は、彼にはその内容に関して責任がないメッセージの透明な配達人である、というわけだ。しかし、そうだとすると、使徒と天才との区別はなくなってしまうのではないか。たとえば、前回も述べたように、アインシュタインは、キェルケゴール的な意味で天才だが、それは、彼が、宇宙についての真理を人類に届けた配達人だったからではないか。使徒が、大事なメッセージをただ伝えるだけの任務を果たしているというのならば、師その人よりも、教えの内容の方が大切だ、と言っているに等しいことになり、先の使徒についての規定に矛盾するのではないか。

キェルケゴール〔PHOTO〕WikimediaCommons
 

そうではない。キェルケゴールはここで決して、混乱して矛盾したことを主張しているわけではないのだ。どう解釈すればよいのか。まず、ある言明の権威の根拠は、その言明の発話行為のみにあり、その外部にはない、という論点は確保されている。だが、そうすると、発話行為からどうして権威が発生するのかが疑問になるだろう。この疑問に対しては、普通はこう答えたくなる。発話する者自身の身体が——もっとはっきりいえば肉体的(フィジカル)な強さが——、「権威」の裏づけになっているのではないか、と。身体的な暴力からくる強制によって、「権威」が発生しているのではないか、と。キェルケゴールはしかし、次のように述べている。

しかし、それなら、使徒はいかにして、自分が権威をもっているということを証明できるのか? もし彼がそれを身体的に証明できるのだとすると、彼は使徒ではない。使徒は、自分の言明の外に〔権威の〕証拠をもたない。そうでなくてはならないのだ。もしそうでなかったら、信者の使徒に対する関係は直接的なものになってしまい、逆説的ではなくなってしまうだろう*2

キェルケゴールによれば、権威は、暴力のような身体的に直接的なものから発生しているわけではない。この論点を背景にすると、使徒は外交官のようなものだという隠喩の意味が理解可能なものとなる。

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