伝説のスクープ記者が明かす台湾、中国、東アジアの「裏面史」

米中覇権争いに揺れるアジアの真実とは

かつて産経新聞大阪本社に、伝説のスクープ記者がいた。1990年入社の吉村剛史である。100kgを超える巨体をくねらせ、重要事件のキーパーソンたちを、次々にネタモト(情報源)にしていった。やがてその活動範囲は関西圏に収まりきらなくなり、中国語や台湾語の素養を活かして、東アジアへと広がっていった。

コロナウイルスが中国・武漢で静かに猛威を振るい始めた2019年の年末、吉村は29年籍を置いた産経新聞社を辞してフリーランスになった。それから一年あまりが経ち、先週、初の単著『アジア血風録』(MdN新書)を上梓した。この本の出版を記念して、同い年のアジア・ウォッチャー、近藤大介と吉村剛史が、台湾、中国、そしてアジアの裏面史について、2時間にわたって語り合った――。(撮影/西崎進也)

李登輝元総統が語った「日本人への遺言」

近藤: このたびは、けったいな本を出されましたね。タイトルが、『アジア血風録』。まさに吉村さんのジャーナリスト人生を凝縮したようなネーミングではないですか。

吉村: ありがとうございます。すでに30冊以上も出している近藤さんと違って、私の場合、今回が初めての単著だったもので、まとめるのに一年もかかってしまいました。おかげで順調だった減量が足踏みし、また体重が戻ってきました(笑)。

近藤: 30本のポテンヒットより、1本の場外ホームランの方が、ファン(読者)の心に響くものですよ。中国、台湾、ベトナム、韓国……と、まさに「アジア秘史」のオンパレードですね。

吉村: いろんなネタモトに恵まれたのだと思います。

近藤: 私も同業者だから分かりますが、スクープ記事になる貴重な情報というのは、長年、足で稼いだ取材を積み重ねた末に、ある日突然、ご褒美のように降ってくるものですよね。もしくは、長年にわたって熟成した人間関係を築いた末に、ふと漏らしてくれる。この「長年にわたる」という部分がないと、成り立ちません。

吉村: 確かにそうですね。

近藤: その点、吉村記者はこれまで数々のスクープ記事を世に出してきましたね。山口組5代目組長の引退と6代目の内定、宅間守(池田小児童8人殺害犯)の死刑執行、中国人偽造団によるニセ一万円札事件……。

また、『アジア血風録』のメインディッシュとも言える第2章の「台湾篇」では、80ページにわたって、台湾関連の珠玉のスクープ秘話が書かれています。

今回初めて知ったのですが、総統を引退したばかりの李登輝(り・とうき)氏が、2001年4月に来日して、倉敷中央病院で心臓カテーテル手術を行う際のビザ申請をスッパ抜いたのは吉村記者だったんですね。あの時は、台湾の前総統が国交のない日本を訪問するということで、「一つの中国」を主張する中国から強い圧力がかかっていて、「ホントに来るの?」という感じでした。

吉村: 本にも書きましたが、羅福全代表(台北駐日経済文化代表処代表=台湾の駐日大使に相当)と大阪のホテルで懇談中に、李登輝氏本人から羅代表の携帯に電話が入り、「日本政府からビザが出ることになった」と告げたんです。それで急いで社に戻り、当時は僚紙『夕刊フジ』関西総局の司法・行政担当でしたが産経本紙朝刊用に「李登輝氏一両日中に訪日ビザ申請」という記事を書いた。実際に訪日してからも、大阪と倉敷の滞在に同行しました。

近藤: あれからもう20年になりますが、あの時の訪日は、1ヵ月遅かったら、森喜朗政権から小泉純一郎政権に交代していて、親中派の田中真紀子外相が就任したので、難しかったかもしれませんね。

ところで、「李登輝総統から最も好かれたジャーナリスト」とも言われた吉村記者が、最初に李氏を取材したのはいつですか?

 

吉村: 「最も嫌われた…」かもしれませんが、1999年の台中大地震の時です。当時私は、産経新聞本紙関西空港支局の記者だったんですが、台湾で巨大地震が発生したという一報が入った。それで台湾に土地勘があり、北京大学留学経験者ということで急遽、台北支局の応援に派遣されたんです。被災地に急行したら、死者2400人以上という阿鼻叫喚の中、李登輝総統がダム崩壊も懸念される現場にヘリコプターで降り立ちました。

その時、「産経新聞」の腕章を見て、「おお、こんなところまで来ているの。危ない場所だから気をつけて」と、日本語で気さくに声をかけてくれたんです。それでこちらも、ここぞとばかりに今後の対応策などを聞いて記事にしました。

近藤: 産経新聞社は、中国で文化大革命期の1967年、当時の柴田穂北京支局長が文革批判報道で中国から追放されたため、日本の大手メディアで唯一、台北に支局を置いた。その後、古森義久中国総局長が北京に赴任するまで、31年間も北京に支局を置かなかった。それで、台湾では特別視されていましたね。

吉村: その通りです。私は司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズなどのファンなのですが、第40巻の台湾紀行は、当時の産経の吉田信行台北支局長が、李登輝総統との面会などをアレンジしました。このシリーズの出版元はライバルの朝日新聞社なんですけどね(笑)。

近藤: 李登輝総統に、初めて単独インタビューを行ったのはいつですか?

吉村: それは総統を退任した後、私が『夕刊フジ』関西総局担当だった2002年です。緊張しながら桃園・大渓ご自宅の玄関に入ると、私を出迎えるため、裸足で自ら応接室に掃除機をかけている姿が目に飛び込んできました。その光景を見て、台湾の民主化を象徴していると思ったものです。

その後、台湾大学社費留学時代(2006年~2007年)や台北支局長時代(2011年~2014年)を含めて、何度もお話を聞きました。支局長退任の時も挨拶に伺いましたし、最後にインタビューしたのは、2018年7月、95歳の時でした。

インタビューに応じる台湾の李登輝元総統。著者にとって最後の面談となった2018年7月8日、台北市(吉村剛史撮影)

近藤: 李登輝総統は、まさに吉村さんにとって師匠のような存在だったんですね。私は一度だけ、2004年に台北北郊の自宅で2時間ほどインタビューさせてもらいました。応接間は白い胡蝶蘭で溢れていて、それまで飲んだことない馥郁たる凍頂烏龍茶をいただきました。名刺を交換したら、住所も電話番号もなく、ただ「李登輝」と金の3文字だけ刻まれた名刺でビックリしました(笑)。

吉村: ハハハ、でも気さくな方でしょう。

近藤: そうですね。開口一番、「ここは中国大陸と違って自由な国だから、何でも聞いてくれ」と促されました(笑)。

「22歳まで日本人だった」と言って、旧き良き日本語で流暢に語るものだから、言葉が刺さるんですよね。私が「国家のトップとして、大きな決断を下す時に心掛けていたことは?」と聞いたら、かっと私の目を見据えて、「それは信仰だよ。後ろには、もう神しかいないだろう」なんて言ってね。21世紀の日本人を叱る老翁という感じで、重い宿題を与えられたような面持ちでご自宅を後にした記憶があります。

吉村: 私が刺さった言葉と言えば、最後にインタビューした時に言われた「私は死に物狂いだった。お前、死に物狂いになったことがあるか?」ですね。こちらが問うたのは、「台湾は台湾のまま、22世紀を迎えることができるでしょうか?」。

それまでは、「テレビで『暴れん坊将軍』をみて理想の指導者の姿を考察しているよ」なんて言っていたんですよ。それが台湾の未来について質すや、温和な表情が消えて、一瞬困惑したような様子を見せ、強い調子の日本語で切り返してきた。李登輝氏は、核心を突かれて思わずホンネが漏れる時は、「オレ」「お前」と、まるで旧制高校の学生に戻ったような「書生口調」になるんですね。

近藤: それで、台湾はあと80年あまり生き残れると答えたんですか?

吉村: 「大丈夫だと思うが、民進党も国民党も、台湾が22世紀を迎えられるように、政府を変えていかないと」――それが答えでした。

 

その後、日本についても厳しい言葉がありましたよ。「日本はいつまでもアメリカを頼ってばかりいてはダメだ。憲法を修正(改正)して対等な協力関係を結び、自立しなければならない」「アジアを不安定にさせている最大の要因は、中国の覇権主義にあると言ってよいと思う。しかしアジアがむしろそのような状況にあるからこそ、日本と台湾は関係をより緊密化していかねばならない」……。

まさに「日本人への遺言」という感じでした。

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