昭和18年4月頃、ラバウル東飛行場に並んだ二〇四空の零戦の列線

最大の激戦を生き抜いた「ラバウル海軍航空隊」搭乗員たちのその後

生きて終戦の日を迎えたのはわずか9名
4月12日に発売された『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。
第5回は、第三章「『皆、泣きながら戦っていた』戦死率が特攻を上回るソロモンの航空戦」に関連して、記事の舞台となった昭和18年6月16日の「ルンガ沖航空戦」に参加した搭乗員たちのその後について記してみたい。
 

参加搭乗員のうち約8割が終戦までに戦死・殉職

太平洋戦争の開戦から1年半が経過した昭和18(1943)年6月。南太平洋で苦戦を重ねた日本海軍は、ニューブリテン島ラバウルとその周辺の基地に展開する航空兵力の全力をもってソロモン諸島・ガダルカナル島の敵航空兵力を撃滅し、連合軍の反攻を封じようと、「六〇三作戦」と名づけた総攻撃をかけた。「六〇三作戦」は、まず戦闘機(零戦)隊をもってガダルカナルの敵戦闘機を叩き(「ソ」作戦)、その上で戦闘機、艦上爆撃機(九九艦爆)が協同で攻撃を行う(「セ」作戦)ことになっていた。

これら航空総攻撃の顛末は、「『皆、泣きながら戦っていた』戦死率が特攻を上回るソロモンの航空戦」を参照いただきたい。この作戦で、形勢逆転を狙った日本側の意図もむなしく、零戦隊は、名指揮官と謳われた第二〇四海軍航空隊(二〇四空)飛行隊長・宮野善治郎大尉をはじめ多くの熟練パイロットを失い、艦爆隊もほとんど全滅にひとしい損害を被って、ソロモンの制空権は完全に連合軍に握られる結果となってしまった。

東部ニューギニア、ソロモン諸島要図。赤丸印右から、ガダルカナル島、ムンダ、ブーゲンビル島、ラバウル、フィンシュハーフェン

「ルンガ沖航空戦」と呼ばれる6月16日の戦いを境に、零戦隊がガダルカナル島上空へ進攻することは不可能となり、それからのソロモン航空戦は、攻勢に出る敵を必死で食い止めようとする、防戦一方の凄惨な戦いとなった。

「ルンガ沖航空戦」を一面トップで報じた昭和18年6月19日の朝日新聞

「ルンガ沖航空戦」に参加した70名の零戦搭乗員のうち、その日の空戦で戦死したのが15名。残る55名も、46名がその後、2年におよぶ激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは9名しかいない。その数少ない生還者のうち、筆者が直接会ってインタビューできたのは、総指揮官だった進藤三郎少佐、渡辺秀夫上飛曹、中村佳雄二飛曹の3名である。それに、当日、出撃メンバーに入っていながら、負傷のため居残りを命じられた大原亮治二飛曹。――ここでは、彼らのその後の戦いについて述べたい。

「ルンガ沖航空戦」で大敗を喫したあと、相次ぐ戦闘での消耗に補給が追いつかず、昭和18年6月30日の時点で、ラバウルとその周辺の基地に配備された日本側航空兵力は、零戦約70機をふくめ120数機に過ぎない。航空隊には飛行機の定数があるが、それを満たしている部隊は一つもないありさまだった。

かつて零戦隊の拠点だったラバウル東飛行場跡は、日本軍が「花吹山」と呼んだタブルブル山の大噴火で、いまは火山灰に覆われている(撮影/神立尚紀)

いっぽう、連合軍兵力は、ガダルカナル島に3本の戦闘機滑走路と、より大きな爆撃機基地が整備され、米陸海軍および海兵隊、それにニュージーランド空軍の各種飛行機300機以上が展開していた。

勢いに乗る米軍は、6月16日、ラジオ放送でノックス海軍長官が、〈米海軍近ク大攻勢ニ出デム。此攻勢ハ相当大規模ナルコトヲ言明〉(『高松宮日記』第六巻)した通り、一大攻勢に転じてきた。

まずは、ガダルカナル島に近いニュージョージア島ムンダの日本軍基地を攻略目標に、6月30日、その対岸のレンドバ島に上陸を開始。

日本側は持てる全力をもって、のべ4回にわたってレンドバ島の米軍を攻撃するが、またしても大きな損失を出し、さらに多くの歴戦の搭乗員を失った。「ルンガ沖航空戦」の凄絶な戦いの模様を、〈泣きながら、皆泣きながら戦っていた〉と綴った第二五一海軍航空隊(二五一空)分隊長・大野竹好中尉もレンドバ島上空で戦死し、大野中尉がラバウルに進出以来、折に触れ書いていた手記は未完に終わった。

昭和18年6月30日、レンドバ島上空で戦死した大野竹好中尉
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