世界的物理学者の大栗博司先生が初めて“回顧録”を執筆した理由

探究する精神——職業としての基礎科学
超弦理論の第一人者である大栗博司さんの新刊『探究する精神——職業としての基礎科学』では、大栗さんが科学者としてどのような道を歩んできたのかが生々しく語られています。これまで“回顧録”の執筆は断り続けてきたという大栗さんが本書を書く決心をしたのには、ある大きなきっかけがありました。本記事では、その執筆の経緯について述べられた「はじめに」、そして小学生時代に“科学のすばらしさに胸を打たれた”という読書体験について、書籍の内容を一部抜粋してご紹介します。

空港で受け取ったメッセージ

2019年12月2日、早朝にロサンゼルスを発ち夕方ニューヨークに降り立つと、携帯電話にメッセージが入っていました。二週間後に東京で紫綬褒章の伝達式が予定されており、プリンストンの高等研究所での研究会に出席した後、そのまま日本に向かう予定でした。

メッセージはカリフォルニアの主治医からでした。折り返し電話をすると、前の週に行った定期健康診断で前立腺の腫瘍マーカーに異常値が出たと告げられました。がんの可能性もあるので、日本から帰ったらすぐに精密検査を受けるようにとのことでした。

日本では、不安に思いながら、東京大学・カブリ数物連携宇宙研究機構の機構長としての仕事をしました。12月16日には文部科学大臣が私たちの機構をご訪問くださいました。そして翌17日に文部科学大臣から紫綬褒章の伝達を受けました。

伝達式後の昼食会では幅広い分野の受章者の方々と同席になりました。予習のために皆さんの著書を拝読しておいたので、楽しくお話ができました。ロボットスーツ「HAL」を開発された山海嘉之さんが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を予期していたかのように、「人間の数は地球が維持できるレベルではないので、近い将来に世界の人口が大きく減るようなことが起きるのではないか」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

午後には皇居に参内し天皇陛下に拝謁しました。小学校から大学院まで公教育で私を教え育んでくださり、また研究を支援してくださっている日本国政府から褒章をいただけたことを光栄に思いました。

カリフォルニアに戻り検査を受けるとがん細胞が見つかりました。さらに、年明けの詳しい検査の結果、転移の可能性があると診断されました。原発巣にとどまっていれば根治できるかもしれないと思っていたので、転移の可能性を告げられた時の方がショックでした。

その数日後の1月12日には、東京大学の安田講堂で講演会が予定されていました。カブリ数物連携宇宙研究機構の主催で、しかも私が最初の講演をすることになっていたので、欠席するわけにはいきません。そこで担当医に許可をいただいて一泊二日で東京に出張しました。当日の安田講堂は満員で、私の講演も好評をいただきました。開会のご挨拶にいらした東京大学総長も、予定を変更して最後まで楽しそうに聞いてくださいました。この講演会で私がお話しした「宇宙の数学」については、本書の第三部で解説します。

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この東京出張のためロサンゼルス空港のラウンジで日本行きの飛行機を待っている時に、幻冬舎の小木田順子さんから「職業としての基礎科学」というテーマで本を書かないかという電子メールが届きました。

「研究者や教育者としての先生の来し方をベースに、基礎科学の意義についてお考えを述べていただけませんでしょうか」というご提案でした。

同様の企画はこれまでいくつかの出版社からいただいていましたが、回顧録を書くのにはまだ早いと辞退していました。しかしがん転移の可能性を診断された直後ということもあり、お引き受けすることにしました。

幸い手術は成功し、その後の検査で実際には転移がなかったことも判明しました。そこで新たな命をいただいたのだと思い、基礎科学を職業とできたことへの感謝の気持ちを持ってこの本を書きます。まずは、そもそもなぜ理論物理学者になろうと思ったのか、というところから始めます。

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