では、トランプの「原点」とは、どこだったのだろうか?
ひとまず「マンガ大統領」という点で言うと、じつは、すぐ至近距離に最大の前例があった。バラク・オバマがそれだ。就任後すぐに、彼はなんと『スパイダーマン』コミックに登場した。表紙にもなった(09年1月、The Amazing Spider-Man #583)。
とにかく彼は大人気だったからだ。戦争に明け暮れ、不況に苦しんだブッシュの治世に飽き飽きしていた人々が「チェンジ」を期待して、若きオバマに熱狂した。
たしかに、オバマはとてもかっこよかった。外見という点では、歴代大統領のなかでもJFKと並ぶか、彼を抜くほどの「イケ感」だったろう。演説のうまさでは、僕の知るかぎり、並ぶ者はいない。
あの「いい声」と合わせて、まずもって人々を鼓舞するにふさわしい、まさにスーパースター大統領こそが彼だった。だからほとんどなにも成し遂げていない09年の時点で、ノーベル平和賞まで受賞してしまった。
ゆえに、その後の失望は、かなりひどかった。なんとか二期保たせたものの、オバマ・ケア以外には遺産らしい遺産はない、とする意見も多い。結局は「民主党を支持するエスタブリッシュメント」のための政治をしただけじゃないか、との声もあった。この角度から、マイケル・ムーア監督もオバマを批判した。
そしてなによりも「マンガはダメ」だったのだ。あのような風潮、人気に「そのまま乗っかった」オバマの軽薄さこそが、禍根を残した。かつてのアメリカでは、大統領職とはもっとシリアスかつ、神聖なものだった。
たとえば、1967年に米NBCで放送開始されたTVアニメーション『スーパー・プレジデント』が1シーズンのみの計30話で打ち切られたのは、視聴者や各種団体からの批判が止まなかったからだった。
このアニメーションはタイトルどおり、アメリカ合衆国大統領がじつは超能力を持ったスーパーヒーローで、一朝事あればコスチュームに身を包み、ホワイトハウスの地下にある「彼専用」の秘密基地から秘密の乗り物で出動、そして直接的に自ら悪を叩く!というものだった。
元宇宙飛行士だった大統領は、(ファンタスティック・フォーのように)宇宙線を浴びたせいで超能力を得た、という設定だ。日本でも69年以降幾度か放送されたから、ご記憶の人もいるかもしれない。
この番組に対する最大の批判は「大統領がスーパーヒーローである」という設定そのものに向けられた。為政者が超法規的なスーパーマンみたいになることを「肯定的に描く」なんて、子供の教育上よくない――といった類のものだ。
また、そのような図式が成り立つ国家なんて「まるでファシズムみたいじゃないか」とも……なんともはや、今日から顧みるに、目が眩みそうなほど「まとも」な良識が、かつては、かの国にもあったのだ。ちなみにこのとき、「現実の」米大統領はリンドン・ジョンソンだった。
しかしそこから幾星霜。ついに「一線を超えてしまった」のが、オバマだった。まず彼が「マンガ大統領」の第1号となった。ゆえに、トランプは2016年に勝利できた。オバマの陰画こそがトランプだったからだ。
古典的なスーパーマン・タイプのキャラクターが初期のオバマだったとしたら、トランプは……ジョーカーでもサノスでもいいが、個性的な「悪漢役」か、あるいはフランク・ミラー版のバットマンだったのか。
そこらへんの幼稚な空想がエスカレートしていった先にあるのが「Qアノン謹製」の、例のあれだ。
ではなぜ、そもそも論として「トランプのような存在」が、あれほどまでに愛されたのか?
「マンガ的だ」というのは、ここのところの彼の戦略のひとつでしかない。それ以前の段階で、彼にはとにかく「アメリカ人の心をくすぐる」愛されポイントがあった。それがいかなるものなのか、手っ取り早く知るには、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作を再見することをお薦めしたい。まさにあそこに「80年代のトランプ」の原像が見え隠れしているからだ。
それは悪役「ビフ」の姿だ。なかでも、パート2(89年)でのビフだ。大金を得て、成金となって「帝国」を築き上げているやんちゃ坊主――というキャラクターは、そのまんま「当時のトランプ」のパブリック・イメージをスケッチしたものに近い。