2021.03.31
# 戦争

最新兵器レーダーを積んだ訪独潜水艦は、なぜ帰国目前に沈んだのか

唯一の生存者が語った爆沈の真相

4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。

第1回は、「ヒトラーの要望で日仏を往復した潜水艦乗組員を待ち受けた過酷な運命」――大戦中、5度にわたってドイツ占領下のフランスに派遣された潜水艦のうち、唯一、無事に往復を果たした伊号第八潜水艦に先立って、帰国を目前にしながらシンガポールで爆沈した悲劇の潜水艦があった。伊号第三十潜水艦である。その唯一の生存者が語った、戦時下のパリの空気、そして、爆沈の真相とは。

 

3万3000キロを航破してドイツへ

舫(もや)い綱が投げられると、突然、ドイツ海軍軍楽隊の演奏する「君が代」の旋律が流れた。思いがけない歓迎に、21歳の竹内釼一(けんいち)少尉は、胸のなかを感激が突き抜け、目頭が熱くなるのを感じた。

ビスケー湾を望む、ドイツ占領下のフランス・ロリアン軍港。第二次世界大戦もたけなわ、南太平洋ではガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦がまさに始まろうとしていた、昭和17(1942)年8月6日のことである。
 
竹内の乗った伊号第三十潜水艦は、同盟国である日独の連絡や技術交流の道を開くため、その第一艦として、インド洋から遠く南アフリカ・喜望峰を迂回して、大西洋経由で4ヵ月近く、1万8000浬(カイリ/約3万3000キロ)を航破して、ようやく目的地にたどり着いたのだ。

1942年8月6日、ドイツ占領下のフランス・ロリアン軍港に入港した伊号第三十潜水艦
ロリアン軍港に入港、黒山の人だかりの歓迎を受ける伊三十潜

竹内は、大正10(1921)年、名古屋に生まれた。明倫中学校を卒業後、海軍兵学校に69期生として入校、昭和16(1941)年3月に卒業し、重巡洋艦「羽黒」での練習航海を経て、少尉に任官。重巡「古鷹」乗組の砲術士として開戦を迎え、グアム島、ウェーク島攻略作戦に参加した。ウェーク島作戦では、前進基地のトラック島に主砲弾の備蓄がなかったため、ここで撃てば砲弾がなくなるからと、主砲を島に向け示威行動をするだけで艦砲射撃もせず、双眼鏡で陸上戦闘を見物するだけの妙な戦いだった。

伊三十潜砲術長兼通信長として訪独に参加した竹内釼一少尉(のち大尉。写真は中尉当時)

昭和17(1942)年1月、呉で建造中の伊号第三十潜水艦(伊三十潜)艤装員に発令され、2月25日に同艦が竣工すると、そのまま乗組を命じられた。

艦内での配置は、砲術長兼通信長である。日本海軍の潜水艦は、基準排水量1000トン以上の「伊号」、500トン以上1000トン未満の「呂号」、500トン未満の「波号」に大別され、伊号潜水艦には、艦長、水雷長(先任将校)、航海長、乗組(艦内配置は砲術長、通信長。兼任する場合もある)の士官4~5名のほか、100名前後の下士官兵が乗組んでいた。

伊三十潜は3月10日付で第六艦隊第八潜水戦隊第十四戦隊に編入、完成早々、実戦配備されることになった。竹内は3月25日から1週間、潜水学校で潜水艦講習を受け、他艦の砲術訓練を見学したのち、艦長・遠藤忍中佐のはからいで3日間実家に帰省し、4月10日夜に伊三十潜に帰艦した。

「艦に戻ってみますとね、通路や寝台に、所狭しと大型トランクが山積みになっているんですよ。それで部下に、『おい、これはなんだ?』と訊いてみると、『知らんですか、ドイツに行くんですよ』と言われ、ええっと驚きました。計算すると、ドイツに着くのは夏になる。ところが夏服なんか、艦には積んでない。でもいまさらどうしようもない。眠れぬ夜が明けた翌4月11日、艦はあわただしく出港準備をととのえ、呉を出港、内地に別れを告げました」

積荷の中身は竹内には知る由もなかったが、伊三十潜には、雲母や生ゴムなど、ドイツで不足している軍需物資や、航空母艦、航空魚雷の設計図など機密度の高い物件が、長期航海の食糧品などとともに満載されていた。ただでさえ狭い潜水艦の艦内、床に缶詰を敷き詰め、その上に板を張って通路にするほどの詰め込みぶりだった。

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