「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来

「言外の意味」が汲み取れなくなる…?
稲田 豊史 プロフィール

最短距離で“オタク”になりたい

そのマーケター氏によれば、大学生の彼らは趣味や娯楽について、てっとり早く、短時間で、「何かをモノにしたい」「何かのエキスパートになりたい」と思っているという。彼らは、何かについてとても詳しいオタクに“憧れている”のだそうだ。

ところが、彼らは「回り道」を嫌う。膨大な時間を費やして何百本、何千本もの作品を観て、読んで、たくさんのハズレを掴まされて、そのなかで選球眼が磨かれ、博識になり、やがて生涯の傑作に出会い、かつその分野のエキスパートになる――というプロセスを、決して踏みたがらない。

彼らは、「観ておくべき重要作品を、リストにして教えてくれ」と言う。彼らは「近道」を探す。なぜなら、駄作を観ている時間は彼らにとって「無駄」だから。無駄な時間をすごすこと、つまり「コスパが悪い」ことを、とても恐れているから。

〔PHOTO〕iStock

無駄は、悪。コスパこそ、正義――。「何者かになりたい」人たちが集うある種のオンラインサロンには、そういう考えの人たちが集っている。このサロンに入り、影響力のある人とつながって、インスタントに何か一発当てたい。脚光を浴びたい。バズりたい。そんな「一発逆転」を狙う人たちであふれている。「これさえ実行しておけば成功する、魔法の裏技」「この人とつながったら、成り上がれる」、そんな秘密のバックドア、ゲームで言うところの“チート”を、彼らは日々探している。

 

作品ではなく「コンテンツ」、鑑賞ではなく「消費」

今の世情が、「コツコツやっていても必ずしも報われない社会だから、仕方がない」という理屈は、わかる。ただ、それを映像作品にまで求めるのか。否、彼らは映像作品と呼ばない。「コンテンツ」と呼ぶ。

映像作品を含むさまざまなメディアの娯楽が「コンテンツ」と呼ばれはじめたのは、いつ頃からだったか。少なくともその頃から、作品は「鑑賞」するものから「消費」するものになった(かくいう筆者も、「コンテンツ」という単語を原稿で使うので、責任の一端を担ってはいるのだが)。

たしかに「消費」なら、10秒飛ばしでも倍速でも構わないだろう。それは、ファストフードの機械的な早食いや、咀嚼を省略した食物の流し込みと変わらない。目的は「カロリー摂取」だ。もはや食事ですらない。コンテンツを「摂取する」とは、よく言ったものだ。

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