2021.03.29
# 中国

20年前に戦狼外交を予言し国を追われた中国人ジャーナリストの証言

長平氏の目に映る世論の暴走と悪循環
古畑 康雄 プロフィール

31歳の若さで「南方週末」編集責任者に

原文は英語と中国語だったが、筆者は長年親交があった長平氏から、このほど、日本語への翻訳を依頼され、2週間ほどかけて全文を翻訳した。日本語で42000字を超える長文で、5部に分けて発表した。(「檻の中の自由/『南方週末』元ニュースディレクター長平氏へのインタビュー」集光舎)

インタビューが英語と中国語で発表されると、大きな反響を呼び、ツイッターでは「夢を追い続けた尊敬すべきジャーナリスト」「メディア改革とその挫折を語った貴重な歴史」などと称賛が相次いだ。筆者もまさにこのような思いを持ったからこそ、日本の1人でも多くの人に中国にこういう記者がいたことを知ってほしいと翻訳に取り組んだ。

1968年に四川省の山間部に生まれた長平氏は、日本ではバブル経済期だった1980年代後半に四川大学で学び、89年の民主化運動にも参加した。卒業後出版社の仕事を経て、四川省成都市の商業メディア「成都商報」の記者として活躍、やがてその取材力と執筆力が認められて、広州の「南方週末」に記者として採用された。

南方週末では長江(揚子江)の水害で、四川省の山奥にある水源地の森林の荒廃をルポ、さらには汚職が噂される農村幹部のもとに単身乗り込み、大柄な男たちに囲まれて命の危険を感じながら不正を暴く記事を書くなど、まさにジャーナリストとして多くの困難な仕事を重ねる中で評価を高め、仲間の記者、編集者からの推薦により、1999年に31歳の若さで同紙の新聞部(ニュースディレクター)という、主編(編集長)、副主編に次ぐ編集部門の要職に就いた。南方週末は南方日報の傘下だが、内部からの生え抜きではない記者が編集責任者になったのは彼が初めてだったという。

新聞部主任となった彼が初めて遭遇したのが、99年の北大西洋条約機構(NATO)軍による旧ユーゴスラビア中国大使館誤爆事件だった。この時のことを彼は次のように語っている。

NATOによる爆撃事件は、全国にナショナリズムの波を引き起こした事件でした。中国人が、抗議するために一斉に街頭に出ることを許可されたのは1989年以来初めてでした。若者の中には後に、自分たちを「ユーゴ大使館爆撃の世代」と呼ぶことを好む人もいました。この事件は当時の大学生の思考や行動に影響を与え、その影響が何年も続いたと考えられています。彼らの前には、中国の自由と民主主義を促進したいと考えた天安門世代がいました。89年の天安門事件の後の10年間、中国共産党はその思想教育の方法や内容を変更し、中国の経済発展と相まって、ナショナリズムの新世代を生みました。
事件は本当に衝撃的でした。3人のジャーナリストが殺された。メディアの報道は、衝撃とそれに伴う反米感情にほぼ集中していました。「怒り、涙、血!私たちは決して忘れてはならない!」インターネット上の感情は、目には目を、歯には歯をというものでした。
 
南方週末では、ショックを受けただけでなく、冷戦後の平和における紛争のリスクについても心配していました。一方で、共産党がこの事件を利用してナショナリストの感情や愛国教育を強化しようとしており、国民の間に非理性的な声や行動が出ていることを知りました。そのため、トップページの主見出しは「ミサイルよりも強い力」とする、慎重な一連の報道をしました。

関連記事

おすすめの記事