『2016年の週刊文春』のクライマックスは、デジタルへの進出を進めていた新谷学編集長(当時)とそれを警戒する勢力との攻防だ。
だが、いまや文藝春秋が運営するニュースサイト「文春オンライン」は月間4億PVを誇るまでに至っている。
老舗の出版社を揺るがし、さらなる飛躍を促すことになったWebメディアという存在を柳澤健氏はどう見ているのか?
(前編「政治家も恐れる『週刊文春』、元社員が徹底取材で書いた『裏社史』」はこちら)
(写真:村田克己)

ブックライターとして生きていく「覚悟」
――『2016年の週刊文春』では、柳澤さんが目にしてきた文藝春秋の様子や自身のことも書かれています。ですが、退社については触れていないのでなんだかモヤモヤしてしまうのです。2003年に43歳でフリーのノンフィクションライターになられたわけですが、そのあたりについてお聞かせください。
そうですか? 私は単に脇役のひとりだし、どうでもいいと思ってたんですけど。2003年に文藝春秋を辞めた時には、「どうして辞めたの?」って、何十人に聞かれました。いつも正直に答えたつもりなんですけど、なぜかそのたびに答えが違っていた(笑)。とりあえず、『Number』の副編集長になって現場を離れたのは理由のひとつですね。『Number』では、特集担当デスクが一番面白くて、編集長、副編集長になっちゃうと、原稿料の計算や人のゲラを読んでばっかり。こんなのイヤだなと思って。短い人生だし、どうせなら好きなことをやりたいんです。
――退社されてからどれくらいの時間を経て、ノンフィクションライター、ブックライターのアイデンティティみたいなものが確立したのでしょうか?
会社を辞めた時は何にも考えてなかったんですけど、辞めた当日に文春の玄関で後輩の下山進くんにたまたま会って、「柳澤さんこれからどうするんですか? どうせ何か書くんでしょう?」と言われました。私は書ける編集者として社内では有名だったから。下山くんに喫茶店に連れ込まれて「何か企画はあるんですか?」と聞かれたから「『1976年のアントニオ猪木』だったら書けるかなあ」と返事をして、あっという間に文春で本を出す話が決まってしまった。
ところが、そこからが大変だった。最初は、半年くらいで書けると思っていたんです。私は法学部で卒論を書いてないので、それまでに書いた一番長い原稿が『Number』に書いた30枚。あれを15本書けばいいんでしょ、とか思っていたけど、大甘でしたね。結局書き上げるまでに4年掛かっちゃいました。その間は奥さんのヒモです(笑)。
雑誌の原稿を書くのと、単行本を書くのは全然違う作業。100メートル走とマラソンくらい違う。
3年半くらいは全然まとまらなかった。要するに、本を書くということが全然わかっていなかったんです。
その間に『サッカー批評』という雑誌から頼まれてチャンピオンズリーグを扱った増刊号の編集長もやりました。雑誌の仕事をたくさん引き受ければ、とりあえず食っていけたと思うけど、雑誌を手にした時には「何のために文春を辞めたんだろう? 雇われ編集長をやるためじゃないだろう」とも思った。そのときに「俺は単行本を書いて生きていく」という覚悟ができたような気がします。