2021.03.17
# 映画

『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問

杉田 俊介 プロフィール

ゲンドウは、『シン』に至って、シンジの指摘によって、ついに自分の(男としての)弱さを認める。そして妻=母との一体化の夢を断念する。それは祝福すべきことではある。しかし考えてみれば、50年以上も前の『成熟と喪失』の分析がかなりの程度ゲンドウにあてはまってしまう、その事実に私たちは慄然とすべきではないか。これほどまでの「変われなさ」がコンティニューされてしまってきたことに。

 

大人の責任を示すミサト

その点で注目すべきなのは、「新劇場版」のもう一人の主人公といっていい、葛城ミサトの苦闘だろう。

シンジの世話役でもある年上女性のミサトは、彼女自身の父親との屈折的な父娘関係(研究一途で家族を蔑ろにした父親が、セカンドインパクトの際に自分を守って死んだために、ミサトは父親に対する複雑な愛憎やトラウマを抱えている)もあり、テレビ版や旧劇場版では、ミサトはシンジのそれと共鳴するような未成熟さを見せていた。上司的な面、姉的な面、母親的な面、恋人的な面など、不安定に揺れ動く関係にならざるをえなかった。

今回『シン』を観に行く前に新劇場版『序』『破』『Q』を観返して、次のようなことを思った。『エヴァ』のテレビ版のラストは、カルト宗教あるいは自己啓発セミナーのような演出のために「洗脳エンディング」と通称される。しかしそもそも『エヴァ』シリーズの始まりの光景は「洗脳スタート」と呼ぶべきものだった。シンジは、知らない場所に連れてこられ、状況について詳しく説明されないまま、命令を断りにくい包囲網を作られ、周りから責められ、逃げてはダメだと言われ、混乱したままエヴァに搭乗することを決断させられる……。

大人たちはちゃんと事前に説明するべきだ。自分を捨てた父親と対面して混乱している子どもの決断に、社会的に重要なミッションの成否を委ねるような状況を作るな。そういう身もふたもないようなことを、まず素朴に感じた。

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