2021.03.17
# 映画

『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問

杉田 俊介 プロフィール

たとえば私は拙著『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』で、男の弱さとは、自分の弱さを認められないという弱さである、と論じたことがある。その意味では、ゲンドウという男は、たとえ妻子がいても、愛人がいても、組織運営の才覚があったとしても、マインド的には非モテ=インセルの典型であり、よくいる日本の「おじさん」なのである。

 

ゲンドウの「成熟と喪失」

戦後の保守的な文芸評論家を代表する江藤淳(大塚英志は、江藤の中にオタク批評家のプロトタイプを見出している)は、50年以上も前の著作『成熟と喪失――「母」の崩壊』(1967年)の中で、戦後の日本人男性たちの成熟をめぐる独特の困難を論じた。

これは熟読していくと複雑で難解なところのある本だが、ひとまず単純化しておこう。『成熟と喪失』の根本主題は、弱い男(息子)がいかにして母(自然)の死を受け容れ、滑稽で無様な姿をさらしながらも、一人の「父」として成熟できるか、という点にある。

しかもその場合、息子は、次第に病んで狂って死んでいく妻(母)を看護・ケアする主体である。しかし妻(母)を助けられず、自分の無力さに苦しめられる。そればかりか、無意識のうちに妻(母)を傷つけて殺してしまった自分、罪悪感を抱えた加害主体としての自分に直面する……。

『成熟と喪失』は、安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三などの戦後のいわゆる「第三の新人」の文学者たちを主に論じているのだが、江藤によれば、「第三の新人」とは「中学生的な感受性」(中二病!)を武器にして文壇的出発を遂げた作家たちであり、それは《「子供」でありつづけることに決めた「大人」の世界》(オトナコドモ)であり、「どこかに母親との結びつきをかくしている」。これはまさに「母性のディストピア」(宇野常寛)としての『エヴァ』的な世界を思わせる。

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