2021.03.17
# 映画

『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問

杉田 俊介 プロフィール

作中では人類補完計画は断念され、人々はシンギュラーな「個」に還る。確かにそれは祝福されるべき事態だ。しかし本当は、そこから、現実の社会的困難がはじまるはずである。シンジの父親ゲンドウが象徴するような大人の「男」たちは、たとえば目の前の貧困と格差、気候危機、ジェンダー不公正などに対峙しなければならなくなる(不十分な形であれ新海誠が『天気の子』でそれらの社会的な主題に向き合ったように)。感謝したり感動したりしている場合ではない。

私は以下、ゲンドウの存在を中心として『シン』を論じていく。無数の人物や謎が重層的に交錯する『シン』という作品の全体像を、私のような限定的な視点から十全に捉えられるとは思わない。だがこうした限定的視点から見えてくる問題点もまたあるだろう。

 

誰よりも「チルドレン」なゲンドウ

単純な点だが、次のことを確認しておこう。以前から書いているように(拙著『戦争と虚構』等を参照)、私は『エヴァ』シリーズの中心には、息子のシンジよりも父親のゲンドウがいると考えてきた。

『エヴァ』の世界では、基本的に大人たちが十分に責任を取らず、子どもたちに責任を押し付け、利己的な陰謀に走り、代理戦争を戦わせているのであり、だからこそ、この世界の根本問題が永遠に解決しない(もちろん作中の設定がそれを強いているわけだが、それにしてもやれることはもっとあるはずだ)。その点をもどかしく感じてきた。

ゲンドウは、職場(組織)のネルフでは厳格に冷徹に行動し、シンジやレイを道具のように扱ったりと、愛人の心身を搾取したりと、身勝手な大人にみえる。エヴァに乗るチルドレンの条件は「母親を喪失した14歳の子ども」とされていたが、誰よりもメンタル的に「チルドレン」(ガキ)であるのはゲンドウだった。

ゲンドウの究極の「願い」は、ゼーレの人類補完計画を利用して、かつて実験の失敗で死んだユイ(妻であり代理母でもある女性)を復活させ、一体化することにあった。妻=母なしには生きられず、社会的な他者たちとろくにコミュニケーションも取れないこと、それがゲンドウの根本的な「弱さ」だった。それはよくある未熟で利己的な母胎回帰願望と見分けがつかない。

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