「将軍の顔」にも影響! 大奥における「正室」「側室」の顔の違いを分析

日本の「美人」はなぜ細面なのか
馬場 悠男 プロフィール

大奥の人たちの顔を変えていった美顔観

さて、時は降って江戸時代、徳川幕府の中心だった江戸城本丸にあった大奥は、高貴な美女、華やかな着物、複雑な人間関係、陰謀うずまく恐ろしい世界、といったイメージがある。じつは、そんな大奥の女性たちの遺骨を研究する機会が与えられた。2007年から2009年にかけて、寛永寺・谷中墓地の徳川家御裏方霊廟の改葬に際して、将軍親族の遺骨調査に携わることができたのである。

この調査で、たくさんの人々の頭骨をあわせて全体を見ると、江戸時代の大奥の女性の顔には一定の傾向が見てとれた。庶民と正室と側室では、顔に違いがあることだ。まず、庶民に比べて正室は、頭は広いが、顔は狭く、とくに顔の下のほうが狭くなっていることが一目瞭然である。鼻も狭く突出している。そして側室は、正室と庶民の中間と解釈できる。

【図】正室・側室・庶民の顔正室、側室、庶民の顔、それぞれのフォルム。パジオン・プレグマ高とは、頭蓋骨の頂部にある冠状縫合と矢状縫合との交点から、脊椎との接合部にあって脊髄の通る大後頭孔の前縁までの距離をいい、頭蓋の高さの指標となる

もう1つ、興味深いのは、側室の顔が時代によって違うことである。江戸時代の前期や中期では、庶民と同じような幅広い顔が多いが、後期から末期へ向かうにつれて、正室と同じように細長く華奢な顔が多くなっていく。

これは、貴族出身の正室の顔が細長く華奢なので、それが高貴な美人のモデルとして、一般に流布した影響と思われる。江戸の中期以降には大奥は、表向きは情報が閉ざされていたが、実際は密かにファッションなどの流行発信地として機能し、まるで現在の芸能界のようだったらしい。

おそらく浮世絵によって、正室とよく似た細長い顔の美女が艶やかな着物をまとっている姿が日本中にばらまかれたのだろう。その結果、庶民たちは高貴な美人たちの顔と生活に憧れを抱いた。そして、大奥に側室候補として女性を送り込み、あわよくば政治を支配しようと企む人々にとっては、高貴な正室に勝るとも劣らない、将軍の目にとまるような細面の美女を求めたであろうことは想像にかたくない。

側室の顔が変われば、将軍の顔も変わる

増上寺で発掘された徳川将軍の顔を調べた東京大学教授で、筆者の指導教官でもあった鈴木尚によれば、将軍の顔も、江戸時代の後期には細長く華奢になり、末期では典型的な「貴族顔」になった。では、いったい誰の影響でそうなったのだろうか。

じつは、初代家康、三代家光、十五代慶喜を除くと、将軍は正室ではなく側室の子どもである。したがって、正室の「貴族顔」が将軍の顔に遺伝的影響を与えたことはありえないのである。むしろ、側室の顔の変遷を考えると、江戸後期以降に側室の顔が正室同様に細長くなったことが、その子どもである将軍に影響を与えたと考えられるのである。

【写真】家康と慶喜の顔尾張豪族の娘である於大の方を母に持つ初代家康(左)は、幅広の顔に描かれることが多い。宮家出身の吉子女王(徳川吉子)を母に持つ十五代慶喜は、ほっそりして端正な顔立ちだ photo by gettyimages

「細面、超かわいい! 瓜実顔、マジ美人!」といった紋切り型の価値観が、父将軍の側室への寵愛を得るという間接的な手段により、世継ぎである次将軍の顔に影響を与えたともいえるだろう。

「瓜実顔は美しい」と日本人の形成過程

こうした大奥の美女をはじめ、浮世絵などに描かれる美人が細面で瓜実顔なのは、さきに述べた日本人の形成過程が関係している。

渡来系弥生人の人々は、日本列島の中央部を占拠し、古墳時代以降に中央集権国家を築き、平安時代にはさらに、貴族階級を形成することになった。『源氏物語絵巻』を見ると、貴族たちは「引目鉤鼻」の平坦でのっぺりした顔に描かれている。富と権力を手に入れ、 進んだ技術力と華やかな文化をわがものにした彼らの顔は、「良い顔」「福々しい顔」と見なされ、さらには「日本的な顔」として認識されていった。

その一方で、大昔から日本に住んでいた縄文人の子孫たちは、中央の権力に従わなかったために、そのはっきりした顔が「人相の悪い顔」「泥棒の顔」とされ、甚だしきは「鬼の顔」にされてしまった。歌舞伎の泥棒の顔は、顔半分が黒く塗られている。

【写真】喜多川歌麿「寛政三美人」喜多川歌麿「寛政三美人」 photo by gettyimages

つまり、顔がステレオタイプにパターン化され、社会的差別が生じたのだ。 だから、浮世絵に描かれる美人や役者の顔は、一重の切れ長に描かれている。これは、平安時代以降、江戸時代に至るまで、北方アジア人の血を引くと見なされる渡来系弥生人のような顔がよいとされていたことを示している。

明治以降に、欧米の文化が入ってくると、 欧米人に対する憧れから、ヨーロッパ人の顔に似た縄文人のような顔に対する偏見が薄れていき、昭和の終わりには「しょうゆ顔」(=弥生顔)と「ソース顔」(=縄文顔)などの表現も生まれ、一斉を風靡したことを覚えている人も多いだろう。

関連記事